●ふれあい事件簿1972年11月「ふれあい求めてハンスト事件」 1996年10月「岐阜県御嵩町長襲撃事件」 1996年11月「ふれあい人件費流用事件」 1996年12月「ふれあいセンター着服事件」 1998年2月「校長、ふれあい活動の充実を約束」 1998年3月「ふれあいコンビニ強盗事件」 1998年6月「ふれあいセンター汚職疑惑」 2000年5月「ふれあいの旅で観光客襲撃事件」 2000年6月「ふれあいレジオネラ菌事件」 ●ふれあいのはじまり人と人との交流の意味合いで「ふれあい」が使われるようになったのは、さほど遠い昔のことではありません。 戦後の朝日新聞の記事見出し中で、「ふれあい」(ふれあい・触れ合い・触れあい・ふれ合いの4種類の表記で検索)が最初に使われていたのは1956年3月5日、物理学者小黒晴夫さんのエッセイ「心のふれ合い」でした。この中で小黒さんは「温かいしみじみとした心のふれ合いを科学者同士の間で感じ合うことが出きるならば、なんと幸福であろうか」と書いています。ここでは、人と人との交流といった意味で使われています。ふれあいの用法としては、もっとも正統派です。この文章に違和感を抱く人はほとんどいないでしょう。 ここからふれあいの輝かしい歴史が始まるかと思えば、さにあらず。次に朝日新聞の見出しにふれあいが登場するのは1963年11月、テレビ欄の番組紹介記事「庶民感情のふれ合い カルテロ・カルロス日本へ飛ぶ」でした。その間、7年もの歳月が流れています。さらにその次は1969年9月まで、6年も待たねばお目にかかれません。つまり60年代までは、ふれあいという言葉は一般大衆に認知されてはいたものの、使用される頻度はかなり低かったのです。下に、新聞の見出しに使われた回数と、タイトル中にふれあいが使われた書籍の出版点数をグラフで表示します。 70年代にちらほらと現れ、80年頃から急増するというのが、共通するパターンです。新聞見出しのほうで、二、三おことわりがあります。87年が突出しているのは、「東京→ロンドン ふれあい、駆け抜ける。」と題された旅行記が長期連載されていたためです。データが95年までなのは、私が利用した記事検索用CD-ROMのバージョンが古く、見出し検索が95年分までしかできなかったためです。ちなみに96年以降は記事全文検索ができ、その結果「ふれあい」が含まれる記事数は、
となります。朝・夕刊合わせて検索していますので、現在では週に4、5日は紙面のどこかに「ふれあい」が使われている計算になります。 ●国語辞典の収録時期国語事典への収録時期も、ふれあいが80年代以降に一般化したことの証拠となります。国語辞典には、すぐに廃れそうな流行語は載りません。その言葉の用例が出揃い、ある程度定着したと思われた時点で採録されるのが普通です。 現在売られているほとんどの辞書では、「ふれあい」が見出し語として収録されています。でも、そうなったのは80年代末からのこと。それ以前はまったく載っていないか、「ふれあう」という動詞型での収録でした。おくての例としては、2001年第二版から収録の日本国語大辞典がありますが、これはその名のとおり全13巻のまさに大辞典で、75年の初版以来の改訂ですからしかたがありません。 「広辞苑によれば○○とは……」という文章は紋切り型の代表例の一つです。テーマを決めて一般からエッセイを公募すると、これで始まるものが全体の何割かを占めるとさえいわれています。なにかを調べたいときは、国語辞典でなく、少なくとも百科事典くらいは使ってほしいものです。 それほどまでに普及している広辞苑ですが、ふれあいを収録したのはかなり遅めの95年の第五版。しかも他の国語辞典では「人間同士の交流」といった語義が主流の中で、「ちょっとした交流」と、ふれあいに対してかなりつれない態度を取ります。「ちょっとした」の表現には、微妙に否定的なニュアンスが含まれています。 そして、独自の解釈センスでおなじみの「はぐれ辞書」こと新明解国語辞典は、89年第四版から――と思うのですが、じつは私、今回新明解の第三版(81年発行)が入手できず、参照していません。申し訳ない――で、やはりふれあいの解釈も類書の追随を許しません。
ということは、新明解によれば「親子のふれあい」という用例は、ほとんどの場合間違いとされてしまいます。物心つかぬ頃に生き別れになり、何十年ぶりかで再会した親子にのみ許される希有な交流、それが「ふれあい」なのです。 ●親子のふれあいは不要であるさて、新聞のふれあい記事の歴史に戻りましょう。56年がエッセイ、63年がテレビ欄と、あまりまともに取り上げられなかったふれあいですが、いよいよ69年9月、記事らしい記事の見出しに使用されます。「親子のふれあいが浅い 都青少年対策部の調査」と題された、東京都が社会学者に委託した調査の報告です。なにか、イヤな予感がします。 当時の青少年が抱いていた典型的な父親観は「仕事には熱心だが、その割には生活能力や将来性はパッとしない」でした。クソ生意気なことをいうガキです。この年はまだ高度成長期、しかも「いざなぎ景気」と名づけられた史上空前の好景気真っ只中ですので、少年たちは将来、おやじよりも豊かな暮らしが出来ると信じていました。まさか30年後の自分が、リストラにおびえるパッとしない中年になっていようとは、夢にも思いません。人生、そんなものです。そしてこの調査のまとめとして、問題点が指摘されています。
出ました。アンケート調査の結果だけから子どもの内面の心理状態までが「わかってしまう」社会学スーパーテクニックが、遺憾なく発揮されています。しかも、いってる意味がよくわかりません。悩みを受け止めないのに、ものわかりがよい? 悩みを受け止めようとしないのだったら、それはむしろ、ものわかりが悪い親と考えるのが自然なはずです。こういう曲解テクを目の当たりにすると、私なんか、まだまだ社会学的想像力が不足してるな、と反省しきりです。さらに研鑽を積むことにします。 それに第2回講義で明らかにしたとおり、69年といえば、凶悪な少年の激減期にあたります。ということは、親子のふれあいが浅くなり、子どもの孤独感がかきたてられるほど、少年凶悪犯罪は減少するという、まことに意外な結果が導き出されたわけです。親子はふれあってはいけないとする新明解の解釈は、期せずして社会学的にも証明されたのです。 ●ふれあいを偽善にした男74年2月1日は、ふれあい史の転換点として、永遠に記憶され続けることでしょう。この日、衆院本会議で田中首相が「長い「合邦」の歴史のなかで朝鮮民族の心に植えつけたのは、ノリ栽培法を教えたことや、いまも支持されている義務教育制度を普及したことだ」と発言。これに韓国の金外相が抗議しました。これを受けて二階堂官房長官が、誤解を招いたことに遺憾の意を表明しました。「首相の真意は経済協力よりも、相互の国民的理解を前提とする心のふれあいを強調することにあった」。 政治家の失言や問題発言に対する弁明は、いつの時代にもつきもので、しかも微妙な表現が好まれます。謝罪するのは屈辱ですし、反論すればカドが立つ。対面を保ったままうやむやにしてしまえれば、それにこしたことはない。その目的に、まさにおあつらえ向きなのが、ふれあいでした。 心のふれあいだなんて、そらぞらしいのは百も承知ですが、ばっさり切り捨てるのも妙にはばかられます。妙にしぶとい「善」のイメージがあるのです。前回も申し上げましたが、うっかり「なぁにが、ふれあいだよ」などとつぶやこうものなら、「あらこの人ココロの冷たい人だわこういうのが猟奇犯罪を犯したりするのね社会のガンめ」と烙印を押されてしまいかねません。ふれあいを弁明に使おうと発案したのが二階堂さんだったとしたら、ただものでないコピーセンスの持ち主です。 しかしこのときすでに、言葉に敏感な人たちは「ふれあい」のイメージ戦略に着目し始めていたようです。2月3日の新聞広告欄を見ますと、徳間書店のビジネス書『集客術』が、「商売とは心のふれあい!」というコピーで宣伝されています。 この年の7月には、中村雅俊さんがそのものずばり『ふれあい』という曲を発売、これが120万枚のミリオンセラーになります。まさか二階堂発言の影響で書かれた曲とは思えませんが、ともあれ、これで一気に「ふれあい」はメジャーな単語へと昇格します。ちなみに、74年のヒット曲には中条きよしさんの『うそ』もあります。レコード店では『ふれあい』と『うそ』が並んで売られていたのです。 これで下地は整いました。でも80年頃から始まるふれあいの増殖には、もうひとつダメ押しが必要でした。二階堂進、中村雅俊に続く第三のふれあい男、それは、福田赳夫だったのです。 77年8月、福田首相は東南アジア諸国を歴訪します。じつは74年の1月(二階堂さんがふれあいの切り札を使う前)にも田中首相が東南アジアを訪れているのですが、その際には、タイやインドネシアで激しい反日暴動が起こりました。彼らにとって、カネの力で東南アジアを経済的に支配しようとする日本の姿は脅威だったのです。 彼らの疑念はもっともです。当時日本では、オイルショックの経済不安に便乗して、石油となんの関係もないトイレットペーパーの価格を吊り上げる悪徳商法が横行していました。同じ日本人同士でダマし合っているくらいですから、外国人をダマすことに抵抗があるわけがないのです。 田中さんの轍を踏まないための福田首相の秘策、それがふれあいでした。何をしに行ったかといえば、つまりは日本企業が現地で活動するための便宜を図ってもらうため、各国政府に10億ドルばかりをばらまくのです。クアラルンプールの歓迎式典では、現地の日本企業が盛大に花火を打ち上げ、歓迎されてる様子を演出しました。 でもカネのことを露骨におもてに出しては、田中さんの二の舞です。そこで福田首相は、行く先々でふれあいを強調する「ふれあい外交」を展開します。
歴訪の最後を締めくくるべく、この一連の方針は、マニラ声明として公式にまとめられました。
マニラ声明と呼んだのは日本政府だけで、現地のマスコミなどの多くは「フクダ・ドクトリン」と揶揄しました。ちなみに、英字新聞のジャパンタイムスは、「心と心の触れ合う相互理解」を"heart-to-heart understanding"と訳しています。「触れ合う」の部分が飛んでしまいました。おそらく、「ふれあい」の訳で悩んだのでしょう。ふれあいの持つ微妙なニュアンスをズバリ表現する英単語はないのですから、どうしてもというなら、テンプラ、カブキのように、フレアイとしてそのまま定着させるほかありません。 アジア歴訪はたいした混乱も招かず、無事終わりました。ふれあいばらまき外交は成功しました。ただ残念なことに、これを境にふれあいの価値が暴落したのもまた事実です。ふれあいは、後ろめたいことや真正面からいい出しにくいことをこぎれいにくるむ、便利な包装紙になり下がりました。ふれあいのイメージは善から偽善へと、大きく変質してしまったのです。 奇しくも、二階堂発言の直後と同様、福田ドクトリンの直後にもヒット曲がありました。今度は洋楽です。カナダのダン・ヒルさんが歌い、全米チャートのビルボードで最高3位まで上った"Sometimes When We Touch"が、日本では『ふれあい』の邦題で紹介されました。バラードの名曲としてFM放送などで頻繁にかかっていたようです。 ふれあいは使えるぞ! 色めき立ったのはお役人のみなさんです。パンドラの箱は開かれました。東南アジアの民衆を丸め込むだけの恐るべき偽善パワーを秘めたふれあいという武器が、ついにダークサイドの役人たちの手に渡ってしまいました。 ここから一挙に、官庁や役所のふれあい攻勢が始まりました。公共事業の乱発も、ふれあいの言葉でくるめば堂々と予算請求できます。ふれあい施設の計画から完成までは2、3年かかりますから、これが80年代以降のふれあいラッシュへとつながります。その後の様子は、前回の講義でお伝えした通りです。 ●朝日ふれあいフェチ新聞80年代を通じて、日本はふれあいだらけになりました。ふれあいの中身は見事に陳腐化し、実体を伴わないきれいごとになり果てました。その結果、ふれあいの意味を取り違えた人も増えました。新聞記者も例外ではありません。今回の調査には朝日新聞を使用しましたが、朝日の紙面にはときおり妙なふれあいが登場するのです。 その端緒を開いたのが、冒頭の事件簿、ふれあいハンスト事件の報道でした。じつはハンストを実行した男は、自分ではふれあいなどと一言も口にしていないことに注目してください。それもそのはず、この事件はふれあい増殖以前の72年に起きています。それなのに、記事のタイトルは「心のふれ合いがほしい」。つまり、この事件をふれ合いという言葉でまとめたのは、朝日の記者だったのです。朝日新聞のふれあい好きはここから始まります。 86年6月、中国残留孤児が肉親探しに来日した合間に観光をしたときのレポート。これを「祖国の街ふれあい遠く」とまとめた記者も、ユニークな感性の持ち主です。なぜ、ふれあいが遠いのか。それは、孤児たちが街を歩いていても、周囲の若者たちはまったく無関心で声をかけてきたりもしないから、とのこと。なにやらこの記者はふれあいに対し、幻想に近い思い入れを抱いているようです。街行く若者たちが集まってきて、孤児に「がんばってください」と励ます姿を期待していたのでしょうか。 この記事を読んで思い出したことがあります。2002年、田中耕一さんがノーベル賞を受賞しました。すると田中さんの実家に、近所の幼稚園の先生が園児を引き連れて押しかけ、玄関前で田中さんのお兄さんに向かって「ノーベル賞、おめでとうございます!」といわせていました。迷惑な話です。でも朝日の記者ならこれを見て「すばらしいふれあいだ!」と瞳を潤ませることでしょう。 新聞の投書欄でも、ふれあいは流行のキーワードとなっています。 1996年11月の投書欄より「ふれ合い、ありがとう」東京都・主婦(72) 教訓。暴力事件を目撃しても、すぐに通報してはいけません。見て見ぬふりをしているうちに、それは「うれしいふれあい」になる可能性があるからです。いじめもセクハラもみんなで知らぬふりを決め込んでいれば、いつしか美しいふれあいに変わる日が来ることでしょう。 2000年5月11日の投書欄より「触れ合い実は小動物虐待」三重県・主婦(35) ほぼ同じ内容の投稿が、名古屋版と西部版に2日連続で載ったのは、単なる偶然なのでしょうか。投稿者はどちらも主婦で年齢までほぼ同じとなると、あまりにも出来すぎた話に思えてきます。やせ薬とかモテモテになるペンダントの通販広告にある証言集のようでもあります。 でもよくよく考えてみれば、ヒヨコやウサギは古来、食用として飼育されていた動物です。愛玩用となったのは戦後、かなり食糧事情が改善されてからのことです。投書者の親の世代までは、かなりの確率で子どもの頃にウサギを食べていたはずです。なかにはかわいがった人もいるでしょうけど、最終的には食べたのです。当時、ウサギとふれあって優しい心を育てようなんていったら、大笑いされたことでしょう。昔の文化や食習慣を次代に伝えるためにも、年寄りがウサギを料理して孫と一緒に食べる「ふれあいウサギ祭り」を催してはいかがでしょうか。 社説欄にもふれあいはたびたび登場します。97年4月、援助交際をする女子中高生に向けたメッセージ。
これでは、中年男が若い娘にキショイー、キモイーといわれるのも無理はありません。それより最大の問題は、このメッセージが社説欄に載ったことです。読者が存在しないこと、それに自己満足100%という点で、社説は自費出版の自分史と似ています。ただでさえ新聞を読む女子中高生は少ないのに、しかも社説欄です。このメッセージはだれの心にもふれることなく廃品回収に出されてしまいました。 社説に関しては、愛知県のふれあい施設建設を応援した例もあります。そして極めつけは、2001年2月、前月末の旅客機ニアミス事件を考察した社説です。「触れ合いそうになった両機の距離は……」飛行機の接触事故さえもふれあいと表現してしまう朝日のふれあいフェチぶりには、もう感服するしかありません。 ●ふれあいは縁これほどまでにふれあいが日本人の間にすんなり受け入れられたのは、ふれあいの原型ともいえるものが昔からあったからではないかと、私は考えます。それは「袖振り合うも多生の縁」です。これは要するに、たまたま道ですれ違い、袖が触れただけの人とも、前世でなんらかの関係があったのだという意味の故事です。古くは御伽草子の『蛤の草子』にも見られますので、室町時代にはすでにこの思想が日本に根づいていたわけです。 「ふれあい」は身体的接触でなく心の交流を重んじていることを考えると、「袖振り合う」の影響は少なからずあると思われます。そうしますと、新明解のふれあいの語義「縁が有って、今まで全く知らなかった人と親しくつきあう(ようになる)こと」ともぴったり来ます。 もちろんこれは私の仮説でしかなく、検証できません。でもこの「縁」という思想は粋(いき)でいいではありませんか。役人が押しつけようとする親子のふれあいや地域のふれあいの内容を見ると、こういうふうにふれあわねばイカン、人間はこうでなければダメだ、という意図が見えて不愉快です。無粋です。自分から必死にふれあいを求めるのでなく、たまたまやってくるもの、縁だと考えたほうが、人生、愉しいではありませんか。 今回のまとめ
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