最近の○○・バックナンバー 2(2006年)

●新刊予告と2006年のよかったもの(2006.12.23)

 来年の流行語大賞は「ゆだねてごらん」だと早くも見切っているパオロ・マッツァリーノです。お待たせいたしました。私の新作がいよいよ発売されます。

 その名も『つっこみ力』。ちくま新書です。2月発売です。まだ売ってませんから、いまあわてて本屋さんに駆け込まないでくださいね。お値段はたぶん税別で700円くらい。帯のキャッチコピーは、「愛と勇気とお笑いと。」

 以前の2冊は、人文書コーナーがあるような大きな書店でないとなかなか置いてもらえなかったのですが、今度は新書なので、地方都市の駅前書店などでも、お買い求めいただけることでしょう。もちろん、大学生協やネット書店でもご購入いただけますので、学生さんや通販マニアのみなさんも、これまで同様よろしくお願いします。

 新書ですよ、新書。新規参入組も増える一方で、毎月洪水のように出まくってます。似たようなテーマばかりで食傷気味との声も聞かれる中にあえて飛び込むのですから、やはりそこは、私にしか書けないもので勝負するしかないでしょう。

 新書はかくあるべし、みたいな常識や型にとらわれず、新書というフィールドで思いっきり遊んでます。いままで以上に、広く一般大衆を対象読者に設定して、学問的な素養などなにもないかたにも楽しんでいただけるよう、大小さまざまな趣向や仕掛けを凝らしたエンターテインメントを作り上げました。

 かねがね申してきましたように、私が書きたいのは「正しい本」でなく「おもしろい読み物」なんです。だからこそ私は、自分の肩書きを戯作者(げさくしゃ)としているんです。

 えっ、新書って、こんなにおもしろくていいの? 新書でこんなことやっていいの? 新書でこんなにふざけていいんだ! 驚いてください。笑ってください。うなってください。この本が新書の新たなスタンダードを作るかもしれません。

 宣伝文句ばかり並べて、内容はどうなってる、とお叱りを受けそうですが、本当は、グダグダ説明せずに、先入観なしに読んでもらいたいんです。では今回は、目次の大見出しだけご紹介。

第一夜
 つっこみ力とはなにか もしくは なぜメディアリテラシーは敗れ去るのか
幕間
 みんなのハローワーク――職業って、なんだろう
第二夜
 データとのつきあいかた

 なんで第一章とか第一部じゃなくて、第一夜なのか? しかも、メディアリテラシーが敗れ去る? 私のことをメディアリテラシーの伝道師かなんかだと思ってるかたがいるようですが、じつは私、メディアリテラシーなんて方法論はすでに死んでいて、学ぶ価値もないものだと思ってるんです。じゃあ、メディアリテラシーや論理力やディベート力に代わるモノはなにか。それが、「つっこみ力」なんです――というわけで、ここから先は本をお読みになってください。発売が迫りましたら、また情報を追加します。


2006年のよかったもの

東京事変『大人』(CD)
 綾戸智絵さんの歌がジャズに聴こえたためしがありません。椎名林檎さんの歌からは、なぜかジャズが聴こえてきます(ジャズではないにもかかわらず)。今年はジャズのCDが全般的になんとなく不作だったこともあり、一番印象に残ったCDがこれでした。

ヨアヒム・キューン『サバイバー』(CD)
 ジャズで一枚選べといわれたら、これでしょうか。キューンはフリージャズ系の人なので、ともすると演奏中に音楽があの世に行ってしまうのですが、このCDでは、音楽性を壊すことなくぎりぎりまで攻撃してくれて、ジャズのスリルを堪能できます。

『結婚できない男』(テレビドラマ)
 私、ジャック・ニコルソンの『恋愛小説家』という映画が大好きなんです。これ勝手な憶測ですが、このドラマの脚本家のかたも、あの映画が好きなんじゃないかと。で、いつかあの味を再現してやろうと狙ってたんではないかと。だとしたら、大成功です。オリジナルな物語の中に、あの味がきちんと出ています。陰のある女のイメージが強い夏川結衣さんが、珍しくコミカルな演技をしてたのも意外性がありました。

『俺たちニュースキャスター』(アメリカ映画)
 近年まれにみるバカ映画の傑作。スティーブ・マーチン、レスリー・ニールセンのあと、いい歳こいたオトナがバカやるタイプのコメディアンが不在でしたが、ようやくウイル・フェレルが登場してくれました。映画の内容は、バカ、シモ、バカ、シモ……以下繰り返し。

PM8001(ステレオアンプ)
 15年愛用したPM88SEがいかれてきたので、同じマランツのアンプに買い換えました。マランツは昔より音が薄くなったという人もいますけど、私は変なクセのないいまの音も気に入ってます。デノンのCDプレーヤーにボーズのスピーカーという、こってり系コンビの音を、すっきり系のアンプがちょうどいい塩梅に引き締めてくれて、大正解でした。


●最近の中吊り広告とパオロカンタービレ(2006.12.3)
●追記・最近の捏造新聞コメント(2006.12.16)

 雑誌はほとんど読まないんですが、電車の中吊り広告は好きです。あれを見るだけで雑誌の内容の99パーセントを読んだも同然なので、あんな便利なものはありません。ところが先日ひさかたぶりに、内容が読めない残り1パーセントに遭遇しました。「巨乳のクセに清純派 長澤まさみは女の敵」という週刊文春の見出しが目に止まったのです。なんとも不思議な論理です。「巨乳のクセに清純派」が女の敵ってことは、「巨乳で淫乱な女」は女の友なのでしょうか。じゃあ、「貧乳で淫乱な女」は敵か味方か、どっちなのか。山田風太郎の忍法帖では、巨乳で淫乱なくのいちが敵の刺客だったりするが、そのあたりの危機管理はどうすべきなのか。

 私は駅に着くなり、駅ナカの本屋に走り、文春を立ち読みしましたが(買わないのかよ)、私の疑問にはまるで答えてくれてないし、中途半端にまじめな陰口記事だったので、がっかりしました。やっぱり芸能ネタなら、週刊誌よりも日刊ゲンダイや東スポのほうが、妄想たくましい記事が多くて愉しめます。

 というわけで、あらためましてこんにちは。パオロ・マッツァリーノです。カンツォーネを歌うように書いている、連載中の『日本列島プチ改造論』、お読みになっていただけたでしょうか。

 自分のサイトなら不定期に気が向いたときだけ更新すればいいんですが、ギャラもらって、よそ様で連載となりますと、サボるわけにはまいりません。1回の分量は短いのですが、毎週ひとネタ、適当な思いつきとはいえ、それをコラムにまとめるのは、それなりに大変です。ネタのタネみたいなところもありますので、将来、この中のアイデアをふくらまして、なんかべつのものを書いたりしようかと考えています。

 じつはもう一本、週一くらいのペースで書くことになっている影の連載みたいなものがありまして、こちらはいちいち発表はせず、まとまったら書き下ろしとして本になる予定です。これは以前お伝えした、来年2月発売予定の本とは別物ですので、これはこれでよろしく。

 そんなわけで実質週2本の連載をしているようなもので、気分だけは売れっ子なんですが、私はもともと人一倍、筆が遅いのでした。そのうち、「作者急病のため休載します」てなことにもなりかねません。あっ、だから担当編集者に、連載開始前に5本くらいストックをお願いしますといわれたのか。見透かされてた?

 読み切りのコラムなので、いちいち補足などはしないでおくつもりでしたが、せっかく反響があったので、連載第1回のネタにだけ、ちょっと触れておきましょう。日本の若者が地べたに座るのはイスがないからだ、と書いたのですが、それにどうも納得できないかたがいらっしゃる。あまりにも単純な真実ほど、受け入れがたいのでしょう。

 みなさん、物事を難しく考えすぎなんじゃないですか。地べたに座って屯(たむろ)してる人がいたら、「座るところがないんだな、かわいそうに、イスを置いてあげればいいのに」って考えるほうが自然です。で、イスを置いてもなお地べたに座ってたら、そこで初めて、「なんでじゃ!」と怒るのがスジってもんで、イスを置く前に怒るほうが、つっこみのタイミングを先走りすぎです。

 それに、いま世の中になくて、みんなが必要としているものはなんなんだろう、って発想こそが、ビジネスにつながるわけで、サラリーマンにとってはそっちのほうがどれだけ大切か。消費行動の変化が激しくなっているぞ、消費者のニーズを見抜け、なんて朝礼で社長や上司にハッパかけられたとき、「はーい、私はその原因を文化論的に考察しましたー」と発表したところで、使えないヤツ、とレッテルを貼られるだけです。昔は使えない人も窓際族で会社にいられましたけど、いまはあっさりクビ切られちゃう時代ですから、気をつけてくださいね。


 先日、朝日新聞のお笑いに関する記事で私のコメントが使われました。でも、あれ、私の意図とはかなり違う文脈で使われていますし、私がいってもないことを、さも私のコメントであるかのように書かれてもいます。結果的に、お笑いのことなどまるでわかってない記者が書いたゴミのような文化記事の片棒かつがされてしまいました。

 具体的にいいますと、記事では「[テレビで]大量放送されることで[ギャグの]消費サイクルはさらに早くなる」 と私がいったことにされてますが、これは記者の意見です。私はそれに対して、昔から一般論としてそういわれてますね、と追認しただけです。

 ユーモアとギャグの対比に関しては、なんだか意味が通じてませんけど、これは記者が私のコメントを勝手に要約したためです。この考察に関しては、来年2月刊の私の新刊で詳しく触れていますので、そちらをお読みください。

 また、私はいまのお笑いに対して、決して批判的な立場はとっておりません。それなのに、現代の笑いはつまらないという趣旨の記事に都合よく私のコメントを使われてしまいました。

 不愉快なので、そのときの顛末をお話ししておきます。

 出版社経由で記者から電話があり、コメントを求められました。昨今のお笑いは、流行り廃りのサイクルが早くなっているんじゃないかとかいうテーマの記事を書くので、それについてひとこと、とのこと。

 そんなこと急にいわれてもなあ、と気乗りしなかったのですが、なにしろ元来おしゃべりなタチなもので、日頃考えていることをペラペラしゃべりました。

 ひと通り話すと記者は、反社会学という切り口では、どういう分析になるんですか、みたいなことを聞いてきました。べつに反社会学的な切り口などありません、私なりの解釈を述べてるだけです、といっても、なかなか納得してくれず、何度もしつこく聞いてきます。

 その時点で、ちょっとげんなりしたんです。ああ、要するにこの記者は、たいしてお笑いが好きなわけでもないのに、お笑いを社会現象として学問的に分析して、いかにもわかったつもりの賢しらな文化論を書きたいわけですね。

 すると今度は、私の肩書きをたずねられました。私は、庶民向けにおもしろい本を書いているので、江戸時代の先達にならって戯作者を自称してます、というと、それはちょっと、とおっしゃる。著述業か作家にしてください、と。

 え、なんで? 戯作者ではいけないんですか、と問いただしても、はっきりと答えてくれません。私はべつに、心臓外科医ですとかウソをいってるのではないのですよ。実際、おもしろい本やコント、新作落語を書いて、戯作者としての活動をしているのに、なんで肩書きとして認めてくれないんでしょう。そのあたりの根拠を詳しくうかがおうとしたら、時間がないので、とかいいやがるんです。おいおい、こっちだって時間をさいて答えてやってるのに。

 記事ができたら、一応電話で内容を聞かせてほしいと念を押したところ、翌日、連絡がありました。しかし、私のコメント部分を読み上げてもらうと、やっぱり自分のいいたいこととはズレがあるんです。私は現代のお笑いに批判的ではないのに、なんとかして否定的な論旨に持ってこうとする記者の態度が見え見えです。

 いや、そうじゃなくて、私のいいたいのはこうだ、と違うフレーズでいい直しても、それはこういうふうにいい換えさせてください、とかいって、またご自分の論旨に都合のいいように、私のコメントをいじろうとするんです。

 「大量放送されることで消費サイクルはさらに早くなっている」なんてセリフは私はいってないので、そこのところは削ってください、と頼んでも、聞き入れてくれません。だから、それはあなたがいいたいことなんですよね? だったら、その部分は地の文にして、あなたの意見、もしくは一般論とすればいいじゃないですか、とお願いしても、記者はあいまいな返事しかしないんです。(結局、記事では完全に私のセリフとして書かれてました。ですからこの部分は捏造コメントです。)

 私はこの時点でキレました。なんなんだこいつは。コメントなんだから、私がいったフレーズと論旨を尊重しろよ。あんたの解釈で勝手にねじ曲げるなよ。いまのテレビのお笑いがつまんないといいたいだけなら、最初から自分の考えだけをまとめて署名コラムにしろよ! 私をあんたのくだらない文化記事の共犯者にするなよ!

 さすがにそれは口には出さなかったのですが、もう面倒くさくなって、はいはい、もういいです。そういうことにしといてください、と投げやりな返答で電話を切りました。

 ただ、これだけは、はっきりと伝えておきました。私は電話コメントを求められたのは今回が初めてですが、大変勉強になりました。今後一切、電話でのコメントはお断りします。


●最近の仕事と昔話と新刊予告(2006.10.25)

 大和書房のサイトで連載が始まりました。毎週水曜更新です。ただし、バックナンバーは3回分しか読めないようになっていますので、ご注意ください。欠かさずお読みになりたい場合は、少なくとも3週間に1ぺんは読みに行ってください。

 読めばわかることですが、いわずもがなの内容紹介を。連載タイトルは『日本列島プチ改造論』。これまでこのサイトのコラムでも、株価表示板とワンカップの自販機をくっつけようとか、そういうくだらないプチアイデアを披露してきましたが、まあ、その延長線上にある感じを想像していただければ、当たらずとも遠からじ。最近はどうも、ハーフという自分のキャラ設定を忘れがちなので、初心に返りまして、ガイジン目線で見た日本論の味付けもしてあります。

 今回で3代目になる、私の肖像画(?)は、漫画家の岡林みかんさんに描いていただきました。これまででもっともワイルドでちょいワルなイメージになっておりまして、私もお気に入りです。(ドン・キホーテみたいにロバに乗ってるけど、ドン・キホーテはスペイン人だろ、とかいう細かいつっこみはナシってことで。同じラテン系なんだから。)

 自分の(想像上の)肖像画を、いろいろな漫画家やイラストレーターのかたに描いてもらえるなんてのは、なかなか貴重な経験です。それもこれも、ひとえに本が売れた結果です。『反社会学講座』や『反社会学の不埒な研究報告』を買っていただいた読者のみなさんと、売っていただいた書店・版元のみなさんのおかげです。

 お笑いの人なんかも、売れなアカンなぁ、なんていいますけど、本だってある程度は売れないといけません。ある程度はね。

 いまだからいいますけど、『反社会学講座』の初稿はこのサイトを始める前、いまから5年くらい前に、いったん完成していました。最初から、本にするつもりで書いてたんです。いったん書き上がったものを何社かの出版社に見せて回ったのですが、どこからも相手にされませんでした。私はそれ以前にも、別名義で本を出してたんですが、まったく売れてなかったんです。売れない本を何冊書いても、それは実績にはならないんだ、と世間のキビシい現実を思い知らされました。

 でも、どうにもあきらめがつかなかったもので、その中のネタからおもしろいものをピックアップして、文体もガラリと変えて(最初の原稿はごく普通の「〜である」調で書かれてました)、ネットで公開することにしたのです。しばらく放っておいたら、忘れたころに評判になりまして、今度は出版社のほうから本にしませんかと連絡が来て、ようやく陽の目を見たという次第です。

 その後、さいわいにも、いろいろな出版社のかたから声を掛けていただきましたので、順次、仕事をこなすようにしております。というわけで次の本ですが、一応、来年2月ごろに発売の予定となっております。

 まだまだ守りには入りません。攻めてます。前2冊に劣らず、いろいろな趣向をほどこしてあります。新たな趣向や表現に挑みつつ、なおかつ、読みやすくてわかりやすくておもしろいというエンターテインメントの基本姿勢は崩していません。手前みそになりますが、かなりおもしろい本になるので、どうぞご期待ください。


●最近の仕事の予告とひき逃げの謎(2006.10.2)

 近々、久しぶりに連載を始める予定です。といいましても媒体は雑誌ではなく、ネットです。ここではなく、よそのサイトでやります。毎週更新なんですが、バックナンバーが数回分しか見られない方式になっているらしいので、お読み逃しのないよう、先に予告だけしておきます。詳細が決まりましたら、またお知らせします。

 これとは別に、本の企画のほうもいくつか進行しているのですが、いかんせん遅筆なもので、各出版社の担当者のみなさまにはご迷惑をおかけしております。読者のみなさんもお待ちかね――のかたがどれだけいらっしゃるかわかりませんが、もうしばらく、お待ちください。こちらも予告だけということで。

 さて、先頃まで世間をにぎわせていた話題といえば、ハンカチ王子の活躍、でもなく、パリス・ヒルトンの遅刻、でもなく、飲酒運転とひき逃げですね。  テレビの報道を見ていて、妙に引っかかるコメントがありました。ひき逃げ件数が増加していることを示すグラフを出した上で、コメンテーターのみなさんが口々に、「危険運転致死傷罪ができたことで、飲酒運転による罰則が強化されたので、ひき逃げしたほうが逃げ得になっている」と指摘してたんです。

 逃げ得、ねえ……。なんかそれだとまるで、人身事故を起こした者が、罰則の損得を瞬時に計算して、逃げるほうを選んでいるかのように聞こえますし、それによってひき逃げが増えたという解釈を臭わせます。現に多くの視聴者のみなさんはそう思ってしまったのではないでしょうか。

 でもそれって、違うんじゃないですか。結果論としては、たしかに逃げて酔いをさましてから出頭したほうが、酒酔い運転の事実が証明できないから刑期が短くなるでしょうけど、それだって、前科がつくことには変わりはないわけです。ムショを数年早く出られたからといって、さあ社会復帰だ、となりますと、酒酔いによるひき逃げもシラフのひき逃げも、不利な点ではそう大差はないはずです。世間はそう優しくはありません。ひいたのに逃げた、という時点ですでに、人間失格の烙印を押されてしまうわけで、飲酒の有無などはつけたしにすぎません。

 そこまで考えると、はたして逃げ得なんてのが本当にあるのかどうか疑問ですし、逃げ得を狙ってひき逃げが増えたという分析も、かなり不自然です。では、テレビでもたびたび登場していた、ひき逃げ発生件数のグラフをいま一度確認してみましょう。

ひき逃げ件数

 平成12年にひき逃げが急増していたことがわかります。ほら、やっぱりおかしいじゃないですか。だって、危険運転致死傷罪が適用され始めたのは、平成13年の暮れでした。つまり実質的に、逃げ得になったのは平成14年からのことなんですよ。逃げ得になる前からひき逃げは増えていたんですから、いくら日本人の計算能力が低下しているとはいっても、これでは損得勘定が合いません。

 しかし、平成11年から12年にかけて、交通事故の総数も急増していたのも事実です。そこで念のため、交通事故総数(人身事故のみ)に占めるひき逃げの割合を計算してみましたが、やっぱり、平成12年に急増していたことが確認できました。

 なぜ平成12年に交通事故が増え、ひき逃げも増えたのかはわかりません。ただ、逃げ得だというのは、法律の運用上、たまたまそうなったというだけにすぎず、逃げ得だからそれを狙ってひき逃げするやつが増えたという因果論は、こじつけです。

 ですから、厳罰化すれば劇的にひき逃げが減るはずだ、なんて期待をすると、肩すかしをくうかもしれません。でも、ひき逃げの罪を重くすることは、罪と罰の釣り合いを取る上では有効です。俗っぽい言葉でいえば、「スジを通す」ためには、厳罰化は決して無意味ではない、といっておきます。


●最近の夏休みと自由研究(2006.9.3)

 首都圏ではようやく暑さも峠を越したようですが、こんにちは。暑いとスキンヘッドにしたくなる衝動に駆られるパオロ・マッツァリーノです。

 でも、あれはあれで、地肌が直射日光にさらされるわけだし、汗をかくと髪の毛に吸われずに全部つーっと顔に流れてきそうだし、一長一短に思えて、毎年、実行にまで踏み切れないうちに秋になってしまいます。

 どちらかというと暑さに弱いタチでして、暑いとアタマが働かないんですよ。そういうわけで、それを口実に原稿書きをさぼって、こないだCD屋さんに行きました。

 ご趣味は、と訊かれると、CDの試聴です、と答えるようにしています。渋谷や新宿の大きなCD屋には、ありとあらゆるジャンルのCDが揃っていますし、試聴ができる機械が並んでいるので、たまに出掛けて片っ端から聴くと楽しいんです。お金もかからないし。

 いろいろ聴くといいましても、実際購入するとなると九分九厘がジャズで、なんだかんだいって、月に5枚か6枚は買ってます。日本レコード協会の「2005年度音楽メディアユーザー実態調査」によれば、日本人のCD購入枚数は、せいぜい月に1枚程度だそうですから、平均的な人からすれば、私はかなりの音楽ファンといえるのかもしれません。

 ジャケ買い(試聴せずにジャケットのデザインセンスだけを頼りに買うこと)や、店員さんがつけたポップの紹介文を気に入って買ってしまうこともあるので、一般の人からすれば、けっこう音楽マニアなのかもしれません。

 ちなみに、この日本レコード協会の調査では、CD購入のきっかけとしてFMラジオをあげている人がけっこういることにも驚かされました。なんだ、みなさん、けっこうラジオを聴くんじゃないですか。NHKのFMを廃止しろなんて話があるもんで、てっきり誰も聴かなくなってるのかと思いました。20代くらいのかただとご存じないでしょうけど、昔はFMの番組表が載ってる専門誌が4誌もあったんですよ。いまのテレビガイドみたいな感じで本屋さんに並んでました。

 なにしろ、現在保有しているオーディオ機器という項目で、携帯電話が一位になってるんですから、時代が変わりました。デジタル携帯プレーヤーを飛び越して、携帯電話がもはやオーディオ機器なんですよ。今年、8万円のSACDプレイヤーを購入した私は、やっぱり音楽オタク?

 ところで、CD屋さんで、イタリア系のヘンな名前のジャズミュージシャンを発見し、親近感が湧きました。女性ボーカルのロバータ・ガンバリーニ。イタリア系のアメリカ人ですが、ガンバリーニ、って、いきなりダジャレみたいな名前が素敵です。イタリア料理の店に行ったオヤジが、
「この葉っぱ、なに?」
「ルッコラです」
(葉っぱを重そうに持ち上げながら)「ルッコラしょ」
 みたいな。あなたの職場にも、必ずこんなちょいウザおやじがいるはずです。

 もうひとりは、イタリア人ピアニストで、ウンベルト・ナポリターノ。これまた、コントのキャラを思わせる安易な名前ですが、実在します。

 両方ともCDを試聴できたのですが、残念ながら、どちらも私の好みとはちょっと違いました。ちなみに私の最近のお気に入りイタリアンジャズCDは、サックス奏者ピエトロ・トノロの『イタリアン・ソングス』です。


●最近の夏休みと自由研究(2006.8.2)

猫も夏休み

 世間は夏休みです。猫も夏休みです。いまでも小学生には、夏休みの自由研究なんて面倒くさい宿題があるみたいですね。自由っていうんだから、宿題をやらないのも自由かと思えば、そうでもない。

 私なんか年がら年中、自由研究をしてるようなものですが、人生ってのは、わからないものです。まさか自分が30歳すぎてもまだ自由研究をしていようとは、小学生のころには想像だにしませんでした。

 では、夏休み特別企画。自由研究のテーマに悩む小学生のみんなに、おじさんがどんな自由研究をしているか教えてあげるから、参考にしてね。

 オトナはみんな、「世の中には、うまい話はない」だとか、「お金は天から降ってこない」なんていうよね。
 でもそれって、ウソなんだ。じつはお金は、天から降ってくることがあるんだ。
 財布やお金を落として見つからないとき、どうする? 警察に行くよね。「お金を落としちゃいました」って。じゃあ、お金って、どのくらい落ちてると思う?
 その「お金、落としちゃいました」の総額が、平成16年の1年間で、なんと409億円もあったんだ。世の中には、そそっかしい人がたくさんいるんだなあ。
 ところが、実際に拾われて警察に届けられたお金は、132億円。てことは、277億円は、だれにも拾われずにそのままになっているか、だれかが拾ってネコババしちゃったってことだよね! ほら、世の中には、うまい話があるじゃない。オトナはウソつきだよねー。
 仮にだれもお金を拾わないとして、日本全国にどのくらいお金が散らばっているのか、ちょっと計算してみよう。だいじょうぶ、おじさんも算数は大嫌いな私立文系タイプだから、むずかしい計算は出てこないって。
 1年間で409億円が落とされたってことは、毎日、およそ1億1千万円ずつお金が落とされてることになる。日本の面積はおよそ37万8千平方キロメートル。といっても、お金を落とすのは、たいていは人が行き来する場所だから、湖や林みたいなところの面積は除いてしまおう。そうすると、およそ13万平方キロメートルになる。その広さに、毎日1億1千万円が落とされるってことはだね、1平方キロあたり……
 オッといけない。こういうとき、日本のオトナはなぜか、東京ドームの広さにたとえる決まりになってるんだ。なんでかね。なんでだろ。みんな、巨人ファンなのかな。欽ちゃん球団は存続できるのかな。
 東京ドームの広さを知りたければ東京ドームのホームページを見てもらうことにして、おおざっぱな計算結果だけを教えよう。毎日、東京ドームの広さの土地に、およそ4万円のお金が落ちていることになるんだね。
 どうだい、世の中には、うまい話があるじゃないか。おいおい、そこのキミ、さっそくお金を探しにいくつもりかい? その行動力は誉めてあげるけど、たぶん見つからないと思うなあ。どうしてかって? この計算を始める前に、おじさんは、「仮にだれもお金を拾わないとして」とことわっただろ。
 じつは、世の中には、お金を拾うプロがいるんだ。地見師(ちみし)って人たちだ。彼らはいつも下を向いて歩き回り、ものやお金を拾って暮らしてる、プロフェッショナルなんだ。計算上では日本全国にお金がたくさん落ちているはずなのに、めったに見かけないのは、きっと、プロが先に拾ってしまっているからなんだね。
 つまり、世の中にはうまい話はない、ってのは、ウソだ。うまい話は確実にある。あるんだけど、だれかがすでに拾ってしまってるから、ないように見えるってだけのことなんだ。もし今度、「世の中にはうまい話はない」とオトナがいったら、きみたちは、ははーん、この人は、世の中の本当の仕組みを知らない、甘ちゃんなんだな、と思えばいいのさ。
 まあ、でもキミが将来、地見師になるにしろ、サラリーマンになるにしろ、うまい話をものにするためには、毎日のまじめな努力が大切であることには、変わりはないわけだ。

 おじさんがいつもやってる自由研究は、こんな感じかな。みんなもがんばってね。


●最近の株とギャンブルとワンカップ(2006.7.1)

 サッカーにはまるで興味がないので、日本が勝っても負けても気になりません。  株や投資にもまったく興味がないので、日銀総裁が儲けようが損しようが、知ったこっちゃありません。

 ただ、あれってなにを問題にしてるのか、そこがよくわかりません。総裁が大儲けしたから、問題になってるんですか? それとも、日銀総裁のような、経済動向を左右できる立場の権力者が投資をすること自体に問題があるんですか?

 じゃあ、もし仮に、あの人がライブドア株で大損してたとしても、やはり今回のように進退問題にまでなったのでしょうか。そうは思えないんですけどねえ。その場合は、バカだねえ、くらいにからかわれておしまいだったんじゃないですか。やっぱり、たまたま儲けてたから、叩かれてるだけのような気がするんですけど。

 お偉いさんがどうなろうとかまわないのですが、それよりちかごろ、若い女の子が気楽に株に手を出してることのほうが心配です。「株やるとねー、世の中のこととかぁ、興味持ってぇ、新聞読むようになったよー」と、新聞を読めるだけの学力があるかどうかも疑わしい子がいうんです。

 証券会社の宣伝活動やイメージ戦略のおかげで、株はギャンブルだということを、みなさん、お忘れになってきてるようです。投資と投機は違う、なんていう人もいますが、そんな線引きは言葉のお遊びにすぎません。成功すれば投資、失敗したら投機と、結果論でわけてるだけです。

 以前、どこかの町に、競艇の場外売り場を作る計画が発表されたら、町の住民が反対運動を起こしたことがありました。環境が悪化する、というのが理由でした。 でも、町に証券会社の支店ができると知って、反対運動を起こした人はいません。ギャンブルの掛け金を取り扱うのですから、業務内容はまったく同じなのに、ずいぶん対応が不公平ですね。

 場外売り場と証券会社の違いはなんなんでしょう。集まる客層ですか。証券会社の客は子犬を抱いたハイソなマダムや、高学歴高収入でスーツ姿の紳士だから、町に出入りしてもいい。場外売り場の客は小汚いジャンパー着て、乾きものをつまみにワンカップや大五郎飲んでるおっさんだから、町に出入りされては困る、とそんなところでしょうか。一皮むけば、カネ儲けがしたいという欲望がとぐろ巻いてるんですから、どちらもまったく一緒なのに、なぜかギャンブラーだけが差別されるのです。  むしろ投資家はギャンブラーよりも品性下劣であることが多いんです。ギャンブラーは負けても自己責任、だれも文句をいいません。ところが、株だの土地だのに投資する人たちは、値が下がって損をすると、途端に泣きごとをいい出すのです。株価が低迷している、地価が下がっている、資産デフレだ、株主訴訟だ、損失補填だ、日本は終わりだ、ぎゃあぎゃあぎゃあ。

 そんなもん、自分が賭に失敗しただけの話じゃないですか。株や土地なんてのは、もともと余ったカネをつぎ込んでるわけで、すっからかんになったって、すぐに生活に困るわけではありません。老後の人生設計が狂うなんて嘆く年寄りもいますが、投資をしている時点で、他の人よりカネが余って豊かだったわけですよね。そういう人が投資に失敗したとて、贅沢が出来なくなるというだけのことなんです。普通の年寄りと同じように、年金でつつましく暮らしてください。そもそも、投資というギャンブルの収入に頼って老後の人生設計をすること自体が根本的に間違ってるんですが。

 もっと悪質なやつになると、資産が目減りすると消費に悪影響を及ぼすなどと、ずうずうしいことをいうんですね。オレが損すると、世の中や景気に影響が出るぞ、という脅迫です。世の中を良くしたければ、オレを儲けさせろだなんて、そういう自分勝手なことを平気でいえるようになれば、サイコパスとしては一流です。

 株をやる人たちは、ギャンブラーを見習って、オケラになったらワンカップ飲んで潔く忘れることです。儲かったら、もちろんワンカップで乾杯。ワンカップのメーカーと証券会社はタイアップしたらいかがですか。株価速報の表示板とワンカップの自動販売機を一台の機械にして、証券会社の店頭に置けば、ヤケ酒にしろ祝杯にしろ、売り上げアップ間違いなし。おっと、またしても素敵なビジネスモデルを無料で公開してしまいました。次回から、有料のメールマガジンにします(ウソ)

株価速報機能付ワンカップ自販機

●最近の駄菓子、そして、ネットは意外と使えない(2006.6.3)

 こんにちは。若い女性に大ヒット中、ブラックサンダーです。
 あっ、間違えた。パオロ・マッツァリーノです。

 外出中に小腹がすいたとき、甘いものをちょっとだけ食べたくなることがあります。たくさん食べるのはイヤなんです。私の場合、30過ぎたころから、だんだんと味の好みが変わりまして、まず、ファーストフードの店から足が遠のきました。こどもの時分には目もくれなかった、おからとか白和えなんてものが、妙においしく感じられるようになりました。ラーメンってなんか押しつけがましい味のものが多くて、もともとあまり好みでなかったのですが、さらに敬遠するようになりました。たまに店にはいると、もっぱら塩ラーメンを頼みます。

 そして、甘いものをたくさん食べると、なぜか無性に腹がたつようになったのです。こないだも、メープルメロンパンなるものを試したところ、1個食べ終わるころには、案の定、ええい、甘い! くどい! と腹がたちました。いったい、自分が何に対して怒りをぶつけているのか、釈然としませんが。

 で、先日、たまたま東京駅で小腹がすいたので、売店で小さい甘いものを探したところ、目に止まったのが、小さいチョコバーみたいな「ブラックサンダー」。レジに持ってったら、「32円です」。あまりの安さに不意をつかれました。でも食べてみたら意外なおいしさ。パッケージに書かれた「若い女性に大ヒット中!」「おいしさイナズマ級!」のコピーにも納得できます。しかも少量なので、腹もたちません。

 えー、以上で終わりにしようかと思ったのですが、短すぎます? だって世間のブログってこんなもんじゃないの? って、私はブログも2ちゃんねるも、何かの検索にひっかからないかぎり読まないので、実態をよく知りませんが。

 私はネットをさほど活用していません。いまネットでどんなことが流行っているのかも、ほとんど知りません。『電車男』も、本がベストセラーになるまで、その存在すら知らなかったくらいです。

 ネットの普及でたしかに便利になったことはありますが、あまり過信するのもどうですかね。とくに、調べものをするときに、ネットって意外と使えないな、と感じることが、よくあります。

 たとえば、そうですね、私がどこかの高校や大学に、初歩的な情報収集や資料検索の方法みたいな授業の講師として招かれたとしましょう。そして、私がとても性格のねじ曲がった意地悪な講師だったとしましょう。親切で素直な本来の私とは、かけ離れた姿なのが、なんとも心苦しいところです。ウソじゃないですよ。私が悪口雑言を投げつけるのは、自分の頭の良さを鼻にかけて他人を見下してる学者や評論家に対してだけなんですから。

 「日本の大学の学部別学生数のデータから、女子学生の割合が多い学部と少ない学部、それぞれベストテンを調べよ。(ヒント:文部科学省)

 単純な課題です。女子学生の多い学部に行けばモテモテになるんじゃないかなどという期待をもとに進路選びをする男子高校生もいることでしょう。いないか。ま、動機はともかく、ちょっと確認して、へぇーといってみたくないですか。

 意地悪どころか、課題を解くヒントまで出してあるし。親切なパオロさん。さあ、文部科学省のサイトをレッツ、アクセス!(IT関連の用語って、実際に口に出すと、すさまじく恥ずかしいのはなぜ?)学生さんはまもなく「学校基本調査」に行き当たることでしょう。エクセル形式のファイルがあるじゃない。なんだ簡単。

 しかし、エクセルファイルを開いた学生さんは、ここで壁にぶち当たります。ベストテンを調べよ、って、そんなに学部がないんですけど……?

 官公庁は統計データの類を、ネットでも刊行物の形でも公表していますが、ネットにはダイジェスト版だけを載せている例が多いのです。「学校基本調査」の学部別学生数データも、ネットでは人文科学、社会科学、工学、のようにおおまかな分類しか載せてません。ところが、『学校基本調査報告書』という刊行物では、300以上に細かく分類された学部ごとの詳細なデータが掲載されています。

 ですから、この課題を調べるには、図書館で刊行物を参照するしかないのです。もしかしたら、ネットでも隅から隅まで調べれば誰かがデータを公開しているかもしれませんが、まともな図書館のある大学だったら、席を立って図書館まで行ったほうが早いでしょう。

 ダイジェスト版どころか、ネットでの公開がない資料もあります。文化庁は毎年、「宗教統計調査」を行ってますが、この結果は『宗教年鑑』という刊行物でしか見られません。

 最新の情報を即座に得られるのはネットならではの強みですが、逆に近年のデータしかないというのが、ネットの弱点でもあります。警察庁の『犯罪統計書(平成○○年の犯罪)』は、全ページをPDFファイルにしてネットで公開している珍しい例ですが、平成12年以降のぶんしかありません。それ以前のデータを調べる課題が出たら、どうします? たまたま大学の図書館に『犯罪統計書』のバックナンバーがあればいいですけど、これ、公共の図書館でも大学の図書館でも、所蔵しているところは少ないようなのです。どうしても調べたいとなったら、東京近郊にお住まいのかたなら、国会図書館に行く手があります。もしくは、警察庁の情報公開室に行けば、たいていの統計資料は見せてくれます。地方の人ならどうするか。各都道府県の県警本部に問い合わせてみる――

 と、そこまではたしてやる意味があるかどうかはべつとしまして、ネットで「ググった」だけでは、浅い知識しか得られないかもしれないということは、おぼえておいたほうがいいでしょう。過去の情報の蓄積という点で、また、情報が整理されているという点で、まだまだネットは図書館にかないません。大学選びに悩んでいる高校生のかたは、女子学生の多さとかでなく、大学図書館の充実度も参考にしてみてください。

 女子学生の多い学部ですか? ここまでヒントを出したんですから、知りたいかたはご自分で調べてみてくださいな。いえ、じつはね、私も『学校基本調査報告書』は見たんですけど、なにしろ学部が300以上あるもので、データを表計算ソフトに入力するのが面倒で、まだ結果を出してないんですよねえ。


●100%は妄想、そして、はじめてのコラ(2006.5.1)

 自然科学でさえ99.9%は仮説だという本がベストセラーになっちゃいました。しかも、科学では、ひとつでも例外が見つかったら、その法則や理論は放棄しなければならない、なんてキビシいこともいってます。

 まいったなあ。社会科学の法則や理論なんて、現実に当てはめると例外だらけじゃないですか。このぶんだと、社会科学は100%妄想の産物だと世間にバレるのも時間の問題ですよ。そんな足腰のふらついた理論で社会を良くしようなどと主張している社会科学系インテリさんたちの反論やいかに――え? 私ですか? 私は平気ですよ。ずっと前から、社会科学に正解なんかない、おもしろければいいじゃない、といってきたんですから。社会科学の法則や理論なんて、いま流行りの「あるあるネタ」と同レベルのものなんです。ああ、そういう見方もあるよねぇ、くらいに笑っておきましょう。

 そういえば、『国家の品格』を読みました。なんか嫌っているかたも多いようですけど、いいこともいってるんですよ。たとえば、出発点となる前提が間違っていれば、どんなに正しい論理を積み重ねても間違いのままだ、とか。まあ、日本では昔から「盗人にも三分の理」といってましたから、さほど新しい考えかたというわけでもありませんけど。

 社会科学の法則や理論を絶対視する人は、社会が、趣味も考え方も異なる個々の人間から成り立っているという前提条件をお忘れになっているのでしょう。「すべての人間は同じ法則で動くはず」という期待と、「すべての人間を法則通りに動かそう」とする強制は、紙一重です。怖いですね。社会科学はファシズムの芽をはらんでいるのですから、社会を正しくしようなんて使命感に取り憑かれてはいけません。社会をおもしろくしようくらいに考えるのが、健全です。

 さて、『国家の品格』には、他にもおもしろい個所がですね……うーん……ないな。なんであんなに売れてるんだろ?

 前回の最後でリベラルについてお話ししました。その続きを少し。自由で多様性のある社会という意味でのリベラルになら大賛成の私ですが、理屈・理論をこね回すだけで満足しちゃって、実践を伴わないリベラルなんて絵に描いた餅だとも思ってます。  リベラルって、なんかご大層な思想みたいに論じてる人もいますけど、じつは凄くちっちゃなものだと思うんですよ。標語やスローガンで全国民的に実現させる政治的なものではなくて、ひとりひとりの行動でのみ実現できることではないかと。  私は団地の1階に住んでいます。休みの日の昼間、テレビを見ていたら、窓の外の芝生でボールをどすどす蹴る音が聞こえてきました。近所のこどもがサッカーをやってるようで、うるせえな、と私は腹がたちました。さて、リベラルな人なら、こういうときどうすべきでしょう。

 自分が我慢して、黙って見逃してやるというのは、最悪の選択肢です。それは自分の権利を放棄して流されてしまっている状態で、まったくもってリベラルな行動とはいえません。あるいは、「団地内の芝生で遊ぶことは禁じられている」みたいな規則を楯にこどもたちを追い払いますか。これもリベラルとはいえません。法で決まってるからダメ、という態度は、規則に縛られているだけで、自分の判断を停止しているからです。

 ここで一番大事なのは、私が「うるさい」と思い、実際、腹がたったという事実です。その感情を押し殺してしまったら、こどもたちが芝生で遊ぶ権利だけが一方的に行使されてしまい、私が静かに暮らす権利はないがしろにされます。双方の権利が主張されなければ、多様性もへったくれもありません。

 ですから、うるさいなと感じた時点で、すぐに窓を開けて、「うるさい、どっかよそで遊びなさい」とこどもたちを叱り、私が不快に感じていることを知らせてやるのが、リベラルなやりかたなのです。

 ところが私はテレビを見続け、注意しませんでした。そうこうするうち、ベランダの手すりにボールがぶつかる「ガンッ」という音に続き、「やべっ」という声が聞こえました。そこでようやく窓を開けた私が見たのは、こどもたちがボールを抱えて逃げ去る姿でした。その背中に向かって私は「コラ!」と怒鳴ったのです。生まれてはじめて知らない近所のガキに「コラ!」と怒鳴った私。口に出したあとで、ああ、俺ってなんか、昔のマンガに出てくる、空き地のとなりの家に住んでて野球のボールが飛び込んでくるたびに怒ってるオッサンみたい、と妙なノスタルジーにひたったりもしましたけど、やはりうるさいな、と感じた時点で注意すべきでした。あとからコラ、ではリベラルとはいえません。

 昔は近所のおじさんがこどもを叱っていたといいますが、考えてみると、彼らは近所のこどもや見知らぬ他人と積極的に関わって、自分の権利を主張していたわけで、とてもリベラルだったのです。戦後、個人の自由や権利の主張ばかりが重視されて社会が乱れた、みたいな意見がまことしやかに論じられますが、ホントにそうでしょうか。むしろ、相手や世間に気兼ねして、個人の権利を主張せずガマンしてしまうだらしないオトナが増えたから、一部の人のわがままだけが目立つようになったという見方もできるのです。

 大事なのは、見ず知らずの他人に向かって自分の権利を主張できるかどうかです。それができるのが、真のリベラルな社会ですし、その実現には、やはり一人一人が、どっかの元代議士じゃないけど、身の回りの小さなことからコツコツと実践していくしかないのです。他人のこどもを叱ることすらできない人は、リベラルを名乗ってはいけません。

 自由で多様性のある社会を目指そう、なんてお題目を本に書いたりネットで流すのは、社会生活上のマナーに気をつけましょう、なんて看板立てるのと同じで、なんの効果もありゃしません。やっぱり、言葉で直接相手に伝えるしかないんです。だから私は非言語コミュニケーションなんてものの効果を信じないのです。だって、身振りや表情だけで自分の権利を主張しようとしたら、「メンチ切る」とか「ガン飛ばす」しかないわけで、気づいてみたら非言語コミュニケーションの55%は威嚇、38%は脅し、7%は鉄拳だった、なんてことにもなりかねないじゃないですか。


●最近の不思議な読書(2006.4.1)

 ハリーポッターよりもナルニア国よりも不思議な本を読みましたので、2冊ほどご紹介して不思議体験をみなさんと分かち合いたいと思います。

 まずは、大竹文雄さんの『日本の不平等』。毎年年末になると、各紙誌で今年のベスト本みたいな企画をやってます。この本は去年、ほうぼうで選ばれていました。聞くところによると、昨今は格差本ブームだそうですからね。格差萌え〜ってやつですか? おっと、これはビジネスチャンス到来です。うかうかしてはいられません。さっそくアキバに格差喫茶をオープンして一儲けをもくろみたいところです。

 銀行に駆け込んで融資を頼んだところ、丁重に断られたので、本の話に戻ります。『日本の不平等』は内容にも多少不思議な個所が見受けられますが(たとえば、23ページでは若年層より高齢層の所得不平等度が高いと説明するが、次のページのグラフでは必ずしもそうはなってない)、むしろ読者の反応にクビをひねりました。ベスト本選出者のコメントでは、読みやすいという意見がけっこうありましたけど、そうでもないですよ。だってこれ、基本的にガチガチの論文集で、読み物としてのおもしろみは徹底的に排除されているのです。一般人にとっては読みやすいとはいいがたいし、たとえ学術書であっても、行間から著者の個性が立ちのぼってこない本は退屈です。私も途中で飽きました。

 決して悪い本だとは申しませんが、これをベストに推した人たちの琴線に触れたのは、いったいどの部分なのでしょうか。いや待てよ、これがベストということは、他の経済学本は暴力的なまでに退屈だということですか。それなら納得。

 もうひとつ不思議だったのは、この本から、日本の格差は幻想にすぎないというヘンな結論を引き出している人が、ちらほら見られることです。違うでしょ。この本は、格差は存在するし、80年代以降、開きつつあるといってるんですよ。ただ、もともと日本は老人になるほど格差が開く社会なので、高齢化が進めば格差も開くし、所得は世帯単位で集計されることが多いので、独居老人が増えると貧乏世帯が増えて、日本全体のデータでは格差がより一層強調されてしまうといってるんです。データは切りようで解釈が変わるということです。

 老人の格差が激しいことが証明されたのですから、私がしつこく提唱している年金改革案がさらに現実味を帯びてくることになります。やっぱり年寄りの収入だけでなく資産状況まできちんと調査して、金持ち老人には年金をやらない、ついでに老人医療費の自己負担率も資産状況に応じて変えたらどうですか(もちろん金持ち老人ほど負担率を重くする)。これこそが真の構造改革ってものでしょう。

 ところで、内容面で腑に落ちなかったのは、20、30代では所得格差はほとんど見られないという分析です。これは単に、所得がほとんどない若者がデータに反映されてないってだけのことじゃないかと思うんですが、仮に統計マジックでないとしたら、20・30代の正社員はバイト並みの給料で働かされてることになってしまいます。だったら、それはそれで問題のような気もします。

 不思議な本、2冊目は『「ニート」って言うな!』です。みなさんの中には、私がニートに関してなにも発言しないのをいぶかしむかたもいるかもしれません。率直にいいまして、あまり興味が湧かないのです。正社員になれないからみんなフリーターをやってたわけで、だからフリーターの権利を拡大していけばなにも問題なかったのに、逆にフリーターはやめなさいと道をふさがれたのだから、あとはふらふらするしかないですよ。フリーター批判によってニートが出現したのは必然の結果にすぎません。

 なにもしないでふらふらしてる人が70万人いたからって驚くにはあたりません。ろくに働きもしないで破格の収入を得ている天下りが2万人以上いるご時世です。こっちのほうが労働倫理的に見れば問題です。そうかと思えば百億稼ぐと豪語しながら、いつのまにか拘置所に入ってニートになっちゃった人もいますし、まさに人生いろいろです。

 こちらの本は3人の共著で3部構成、1部・2部を本職の学者さん、3部を学生さんがお書きになっているようです。『日本の不平等』とは対照的に、書き手の主張がみなぎっています。1部と3部は、著者の主張や立場も明確で、とくに不思議なことはございません。あえて指摘するならば、ニートって言うなと禁止している点です。「ニートだってべつにいいじゃん」と思っていた私には意外でした。

 不思議がいっぱいなのは第2部です。読み始めると、さっそくなにやら不思議な感覚におそわれました。はじめて読むのに懐かしい……。少年犯罪発生件数のグラフや、その中の一部だけを見せて、いかにも増加してるように見せるテクニック、キリストもニートだったという説は、キリストはフリーターでパラサイトシングルだったという説の焼き直し。あれえ、これって『反社会学講座』からかなりインスピレーションを受けているんじゃないですか。そう思うのは私が自意識過剰なだけですか?

 いえべつにパクリだとか責めてるのではありません。他人の著作に触発されてそのネタを自分なりにもっと詳しく仕立て直すことには、なんら問題はありません。ただ、私はそれをやる場合でも、「○○さんによれば……」としつこいくらいに本文中でネタ元を明記しますし、たとえ直接引用はしていなくとも、ヒントをもらった本は参考文献一覧で名前をあげています。しかしこの第2部の著者内藤さんは、本文中でも文献をほとんどあげないし、参考文献表もつけてません。第3部の学生さんや、エンターテインメントを標榜する私が当然のごとくやっていることを、プロの学者がサボっちゃいけません。

 内容面の不思議に移りましょう。前半は具体的な話をしているのですが、途中からコスモスがどうのとか、妙な言葉が顔を出し、雲行きが怪しくなります。ニューエイジ系? まさかそんなこともなく、最終的にはリベラルな社会を作ろうみたいな結論で幕が引かれます。おっしゃりたいことはわかるのですが、なんかすっきりしないんですよ。少なからぬ読者が「それで?」とつぶやいたことでしょう。キビシイいいかたになりますけど、結局、ご自分の頭の中に作り上げた箱庭的社会観をニート問題にあてはめて満足しているだけなのではありませんか。

 この後半部を読むかぎりでは、おそらく内藤さんは、もともと抽象的な観念論や社会システム論をこね回すのがお好きなかたなのだとお見受けしました。「うん、社会ってこうなってるんだよねえ」みたいな分析をまくし立てては、周囲の人に「はあ、そうですか。なんかよくわかんないけど、よかったですね」と、あきらかに無関心な相づちでいなされてしまうタイプなのではないかな、と。ま、あくまで私の想像ですので、じつは夜回り先生をやって地域の若者と向き合ってたりしたら、ごめんなさい。

 自由で多様性のある社会を目指そうという主張になら、私も賛成します。しかし残念ながら観念論やスローガンを唱えるだけじゃ、弱い。弱すぎる。それだけじゃニート問題はおろか、なんの社会問題・教育問題の解決にもなりません。それどころか、海千山千のヘリクツボーイたちの手にかかれば、「自由な社会なんだろ? だったら、ニートを差別するのも自由じゃねえか」と悪用されてしまいます。それとどう闘うのですか。やっぱり、リベラルだったら「ニートでもいいじゃねえか」と開き直るべきでしょう。「ニートって言うな」はおかしい。開き直った上で、援護策を講じていくのがよろしいのでは。

 ところで、リベラルって、他人の権利を最大限尊重しつつ、自分のわがままを通すことなんです。だからいわゆる「いいひと」には無理だし、理屈だけこねててもダメ。世間や他人と関わることを恐れない、むしろちょっとウザいくらいの人じゃないとなれません。私もけっこうわがままなので、電車の中でとなりの人のイヤホンの音漏れがうるさいと、「すいませんけど、ボリューム下げてもらえます?」といっちゃったりします。ウザいですか?


●最近の仕事と心を病む優等生(2006.3.1)

 3月1日発売号の『ダカーポ』にインタビュー記事が載ってます。年金問題と非言語コミュニケーションに対する疑問、なんてところで話をしました。頭の毒出しというお題をいただいたのに、結局適当に雑談しただけでした。記事にまとめたかたの苦労がしのばれます。本の宣伝も兼ねてということでお引き受けしたので、それほど目新しいネタはしゃべってませんが、どうぞご一読を。

 インタビューに関しては、著者の顔写真を出さなければ基本的に受けてもかまわない、と出版社の担当者に伝えてありました。二見書房の担当者がいうには、『反社会学の不埒な研究報告』の出版後にインタビューの申し込みが何件かあったそうなのですが、顔写真NGの条件を出すと、引っ込めてしまうのだそうです。いったいみなさん、私に何を求めてらっしゃるんですかね。ビジュアル? マンガ家には、顔を出さないかたが珍しくないというのに、文章は顔で書かないといけないのでしょうか。

 そういうことならこちらとしても、影武者を何人か用意して、インタビューごとに違う人を登場させるなんてイタズラをしてみたくなります。以前、パオロ・マッツァリーノはユニット名であると冗談をいいましたけど、一人ユニットってことにしときましょうかね。なんかアーチストっぽくてカッコイイし。オリジナル・ラブとか、モンド・グロッソとか、劇団ひとりみたいな(アーチスト……?)

 ところで、ここしばらく経済学者の批判ばかりしてきましたが、ここらでいったんやめにします。このまま悪口をいい続けても、最終的には経済学のお約束がのめるか否か、になるので結論は出ません(前提条件を信じるかという点において、学問は一種の宗教でもあるのです)

 大学の教養課程で経済学を受講して、「世の中の法則を数式で解き明かしている! なんて素晴らしい学問なんだ!」と感激するか、「世の中をお約束理論で単純化してわかったつもりになるとは、なんて手前勝手な学問なんだ!」と呆れるか。すでにこの時点で経済学に対するまなざしは決まってしまいます。お約束がのめれば、その人にとって経済学は輝かしい理論です。のめない人にとっては、優等生のためのファンタジーでしかありません。

 ぶっちゃけた話、私はインフレでもデフレでも好きにすれば、という程度にしか考えていません。どっちに転んだって金持ちはトクするし、貧乏人は貧乏くじを引かされるようにできてるのが世の中ってものだからです。

 リフレに関する議論は、実際にインフレにできるかどうかを中心に回っているようですが、経済理論に興味のない私、および一般人にとっての関心は、インフレになったときの生活への影響、これに尽きます。すると学者は口々に、「庶民はインフレをいやがるが、インフレはそんなに悪いものじゃない」とおっしゃいます。でもそれって金持ち目線の一般論です。インフレになればGDPの成長が……とかいいますけど、GDPみたいなデカいものさし持ち出して庶民の暮らしを測られても困ります。資産を持たない貧乏人にとっては、インフレはやはりイヤなものです。少しばかり賃金が上がったって、物価も上がるし税金も上がる。結局チャラか、実質マイナスです。

 それは違う、と経済理論を振り回してシロウトを押さえ付けようってのは、経済理論に反しています。だって経済学では、人はお説教でなくインセンティブ(やる気を起こさせるためのエサ)で動くとされるんでしょ? じゃあ、庶民・貧乏人にとって、インフレを歓迎するインセンティブってなんですか。日本経済が発展すれば、おまえらにもそのうちいいことあるだろう、なんてのはインセンティブとはいいません。そういうのは日本語で「おためごかし」といいます。

 庶民にとってはインフレにするインセンティブが見えないのですから、支持しないのは当たり前です。リフレ派のみなさんが本気で庶民にインフレ政策を支持してほしいなら、庶民が喜ぶオプションをつけて誘導すべきなのです。こういう現実的な発想がなく、理論の正しさを押しつけてばかりいるから、「学者は世間知らず」の烙印を押されるのです。さて、オプションはなにがいいですかね。これはまさか勲章というわけにもいかないので……ま、私もなんか考えときます。

 ちょっと話は変わりますが、とてもがっかりしたことがありました。リフレ派の学者が、「マッツァリーノ必死だな」などという悪口を書いていたことです。こっちも悪口いったのだから、いい返されることに異議は申しません。でも、悪口ひとついうのにも芸がない。ネットでシロウトが使うフレーズをなんのひねりもなくパクるという、センスのなさにがっかりです。いえ、そんなのは些末な問題でした。言葉のセンス以前に、必死に何かをやってる人を「必死だな」と平気で揶揄できること自体、心を病んでいる人の発言としか、私には思えないのです。これには本当にがっかりしました。

 私の本やサイトは高校生くらいの人も読んでくれています。いきおい私も、具体的な例を出したり、こちらの主張をわかりやすく説明したりと必死になります。専門家の著作は、インテリの専門家同士だけでわかればいいという前提で書かれているので、一般人には何をいってるのか理解できません。伝えようとする必死さに欠けるのです。こどもの頃からお勉強ができて、さほど必死に勉強もせず一流大学に入り、なんとなく知的職業に就いてなかなかの所得を得るインテリたちは、おそらく一度も必死になることなく、世間を冷笑した顔で棺桶に入るのでしょう。

 『反社会学講座』が評価されたことはもちろん嬉しかったのですが、一方で私は、世間を小馬鹿にするだけで満足する冷たい皮肉屋を増やしてしまったのではないかとの危惧を抱いていました。ですから、世間知・専門知などと珍妙な区別をしている学者たちに『反社会学講座』が支持されていたと知ったとき、私は軽くショックを受けました。やっぱりか、と。

 社会と人間を肯定する気持ちが根底にあるからこそ、皮肉をいっても許されるのだと私は考えています。だからことあるごとに、私は現代の社会や人間に絶望などしていない、と主張してきました。人類はずっといいかげんだったし、いいかげんな人がたくさんいる、雑多で多様でいいかげんな社会だからこそ、おもしろいんじゃないですか、と。

 私は秀才ではないので、高みから世間を見下ろすエラそうな生きかたは性に合いません。世間にまみれて生きるほうが好きなんです。そして、真面目にふざける、どうでもいいことにこだわって調べる、いいかげんだけど必死。そういう矛盾した生きかたをしたいのです。書籍版『反社会学講座』の最後では、ネット公開版にはないまとめとして、努力することの意味について語っています。まだ書籍版を手に取ったことがないかたは、そこだけでもぜひ読んでください。そこにご賛同いただけず、うざいとか必死とか嗤うかたとは、悪いけど、一生わかりあえないと思います。


●最近の親孝行と経済学的ヘリクツの技術(2006.1.28)

「もしもし、パオロかい。母ちゃん近頃、腰が痛くてかなわないよ」
「日本ではつい最近、画期的な治療法が開発されたんだ。モーツァルトの音楽を聴くだけで、腰の痛みが治るそうだよ」
「マンマミーヤ! でもそれって、クラシック音楽だろ。母ちゃん、クラシックなんて生まれてこのかた、聴いたこともないんだけどね、おまえ、適当に見つくろって送ってくれないか」
「お安いご用さ」
 と、安請け合いしたものの、モーツァルトのCDは持ってなかったので、手元にあったバッハの「イタリア協奏曲」(セブンイレブンのおでんのCM曲)が入ったCDをカセットテープにダビングして送った1週間後。
「凄いもんだね! 毎日聴いてたら、だいぶ腰がラクになったよ!」
 おかげで親孝行ができました。ありがとう、バッハ。

 さて、ここ何回か経済学批判と経済学者の悪口が続きました。読者のみなさんも飽きたことでしょう。社会学は、あれでそこそこおもしろいものですし、社会問題へのつっこみは一般の人にも理解できるから、社会学や学者をからかうのも一興です。ところが経済学ってのはお約束の女王なので、いくらつっこみを入れても、「だって、教科書ではそうなってるんだもん」で済まされてしまいます。つっこみ甲斐がないんですよね。

 だから別のネタを書こうと思ったのですが、前回、以前から私が提唱している「資産家老人には年金を支給せず、代わりに名誉の勲章でもやっとけ」論を経済学者はなぜ無視するかと書きましたら、飯田泰之さんが経済学的見地から分析してくださったのです(その分析はこちら。ありがたいです。いえ、皮肉でなく本当に。他の学者は「パオロなんてやつは経済学の深遠にして崇高なる真理を知らないシロウトだ」と陰口叩くくらいが関の山の、想像力も国語力も未知の命題にチャレンジする好奇心も持ち合わせていない退屈な人間なのでしょう。そんな連中は学者をクビになったらニートに転落するのが目に見えているので、各大学およびシンクタンクの経営者のみなさんは、日本経済を守るためにも、どうか彼らをリストラの対象にはしないでやってください。

 そういうわけで、せっかく分析してくれたことに敬意を表しまして、私も反社会学的見地から飯田さんの分析を評価してみたいと思います。

 飯田さんの分析が経済学的に正しいかどうかは問題ではありません。私が指摘したいのは、飯田さんの説明は、巧妙に論点をずらしているだけで、説明にも反論にもなっていないという点です。おおかたの経済学者はこの手のテクニック――詭弁・強弁・ヘリクツを日常的に使いこなしています。世間の人が経済学者をうさんくさい目で見るのは、そのヘリクツを、指摘できないまでも微妙に肌で感じ取っているからです。世間知をなめてはいけません。

 私は、「年金の代わりに勲章でもくれてやる」というアイデアは教科書に載っていないし、前例もないといいました。するとなんと飯田さんは、「この手法は「現実的で、教科書に載っていて、前例がある」方法なのです!」とおっしゃるではありませんか。マンマミーヤ! 私は当然、『○○』という教科書の何ページにある、という解答を期待して胸が高鳴りました。何世紀のどこの国でやったという前例がある、という具体的な情報を教えてもらえるものだと思って、小躍りしました。

 ところが飯田さんはこう続けます。「キーとなるのは「問題は適切に分割して考えなければならない」という社会科学の(経済学のかもしれないけど)常套手段です」。そして私のアイデアを、政府による勲章販売ビジネスの可能性と、所得再分配という経済学の概念に分解し、検討して、はい、おしまい。……あれ? 結局、私のアイデアは教科書にも載ってないし、前例もないんじゃないですか。

 そりゃ、どんなアイデアだって、概念や原理に分解してしまえば、必ず教科書に載ってますよ。イチゴ大福を例にとってみましょう。イチゴ大福は和菓子業界および世間一般では、その組み合わせが画期的なアイデアとして認められています。しかし経済学者の手にかかれば、モチとあんことイチゴという概念に分解されてしまい、どれも昔からお菓子作りの教科書に載っているとあしらわれ、せっかくの斬新なアイデアも全否定されてしまいます。しかし現実に、イチゴ大福は斬新な商品として世間に受け入れられているのですから、この組み合わせを分解して考えること自体、適切ではないのです。

 私のアイデアは、年金と勲章をセットにし、年金放棄という金持ち老人にとっての経済的損失を、金銭で評価できない愛国的名誉に還元してしまうスパイシーな皮肉さ加減に目新しさがあるわけで、これまた分割してべつの概念に落としてしまうこと自体、適切ではありません。だいいち、分割したらなんのおもしろみもなくなってしまうじゃないですか。

 それに、おそらく飯田さんは『反社会学講座』の「スーペー少子化論争PART3」と『反社会学の不埒な研究報告』の「末は博士か叙勲者かPART2」をお読みになっていないのでしょうけど、私の案を誤解しています。私の案では、資産家の年寄りには、有無をいわさず年金をやらないことが前提になっており、その社会的貢献に対して名誉のしるしとして、お金で買えないプライスレスな勲章をさしあげることになっております。たとえ勲章なんか要らないと辞退しても、年金はあげませんし、勲章を辞退すれば非国民呼ばわりされます。つまりこれは強制であって、政府による販売ビジネスという分析は、あてはまりません。

 ついでに申しますと、年金をはじめとした福祉の偏りは、資産を基準に差を設けないかぎり絶対なくなりません。資産を調べることは困難だという人がいますけど、それは、やる気がないだけです。現に、生活保護の申請をした者は、不正受給を防ぐためと称して、資産の有無を徹底的に調べられますし、保護を受けてからも、なにかにつけて探りを入れられます。貧乏人の資産はチェックできて、金持ちの資産はムリってのも妙な話です。

 それから、自然科学と異なり、社会科学には唯一絶対の正解というものが存在しないという私の指摘(というか、これは私の発案ではなく、社会科学全体での合意事項となっていると思ってたのですが)に対する飯田さんの反論も、体を成していません。「民間貯蓄と民間投資が同額で財政収支が10兆円の赤字の時、経常収支は10兆円の赤字でそれ以外にはない」と経済用語満載のたとえで煙に巻こうとなさいますが、これは国家の帳簿をつける上での約束事みたいなものです。唯一の解とかいうのとは性質が違いますので、「沈みにくい船を造る方法」と同列に比較するとヘリクツになってしまいます。

 これでも私は、おもしろいヘリクツ書いて本を売った男ですから、他人のヘリクツにも敏感なんです。この程度のヘリクツを突きつけられたぐらいで、たじろぎはしません。ただ、みなさんにご忠告しておきますが、ヘリクツには笑いが伴わねばなりません。そうでないと、不愉快なだけです。それに、私は自分でわかってヘリクツを並べています。しかし経済学者は、悪意もしくは無意識のうちにヘリクツをこねてしまうところに問題があるのです。

 飯田さんの名誉のために申しますが、飯田さんの場合は無意識です。悪意ではありません。会ったこともない人の心理がなぜわかる、といわれそうですが、わかります。飯田さんの著書『経済学思考の技術』からは、わかりやすく説明しようと骨を折っている様子がとてもよく伝わってきます。これは物書きとして誠実な人間でないとできない仕事です。――が、その本でさえ、読後、私のアタマの中でヘリクツ警報が鳴り響くのです。悪意がないのにヘリクツが混入しているということは、やはり経済学の構造そのものにヘリクツが含まれているのだとしか考えられません。経済学の構造計算をやり直し、鉄筋、いえ、ヘリクツを減らし、笑いを増やすことをおすすめします。

 最後にもうひとつ。リフレ派って呼ぶな、とのことですが、じゃあなんてお呼びしたらよろしいんで? リフレ組? リフレ信者? リフラー? リフレ族? リフレマン? リフレネーゼ? みなさんで相談なさって、発表していただけますか。大事な問題ですよ、用語の統一に関することなんですから。


●最近の人生いろいろ、おもしろさもいろいろ、正しさもいろいろ(2006.1.1)

 去年の12月初旬の話。本屋で雑誌を立ち読みしていたら、横で週刊誌をめくっていた知らないおっさんが、開いたページの写真を指し示しながら、いきなり私に話しかけてきました。「清原、痩せたなあ。なあ」「はあ……私は野球、詳しくないんで」「そうかあ。詳しくないかあ……オリックス行くんかな、清原」。だから、知らんちゅうの。なんか最近、おっさんに声をかけられる機会が増えたなあと不思議に思ってよく考えたら、自分もおっさんなのでした。『東海道中膝栗毛』には、「おやじめく」という表現が出てきます。「めく」って語感があたたかい印象を残します。春めく、ときめく、おやじめく、みたいな。

 さて、すっかりおやじめいてきた私の著書、『反社会学の不埒な研究報告』ですが、もうお読みいただけたでしょうか正誤表にアマゾンのレビューに関する追記があります)。毀誉褒貶(きよほうへん)の渦巻く中、地道に好評発売中です。SPA、ぴあ、DIME、本の雑誌、などで紹介していただきました。ありがとうございます。取り上げられる個所がそれぞれ違うというのが、おもしろいですね。つまり、読む人ごとにはまるツボが違うということです。

 たとえば、なぜかネットでは評判の芳しくないラストの長編コントですが、ぴあではここが取り上げられました。作家の佐々木譲さんもブログでこのコントをおもしろいとほめてくださってます。べつに、私のコントをつまらないという人の感性を批判しているのではありません。人生いろいろ、おもしろさもいろいろ。そういうことです。すべての人を喜ばすことは不可能ですが、かといって固定ファンだけに媚びてマンネリに陥るのも不本意です。だからこそ、おんなじことばかりやらずに、いろいろなおもしろさに挑戦していくべきだと私は考えます。長編コントは当分書きませんけど。

 これに関してひとつ、誤解をといておきましょう。このコントの主人公は、みなさんお察しのことと思いますが「あの人」をモデルにしています。しかし、私は「あの人」を批判する目的でこれを書いたのではありません。このコントは、「人生訓や処世術を世の人々に伝授する偉そうな本がたくさんあるけど、そういった本の著者自身が窮地に陥ってあたふたする様子を見てみたいなあ」という意地悪な思いつきをカタチにした喜劇なのです。喜劇には悪意のスパイスが欠かせません。でも、それ以上の批判的な意図は、とくに含まれてはおりません。

 『研究報告』は、反社会学バラエティーとして最初から企画して、いろいろな表現やテーマに挑戦しましたので、人それぞれに楽しさをみつけていただければ、本望です。テレビのバラエティー番組には、誰もテーマやコンセプトなんて求めないくせに、本となると、読み手も書き手も批評家も編集者も、なぜか肩に力が入って、テーマはひとつに絞れだの、文体を統一しろだの、全体の構造や起承転結を考えて……などと、大学入試の小論文対策みたいなことばかりおっしゃる。そんなのどうでもいいじゃんねえ。マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』といえば、たいていの人はご存じのはずですが、その冒頭でこんな警告が発せられていることは、あまり知られていません。

 この物語に主題を見出さんとする者は告訴さるべし。そこに教訓を見出さんとする者は追放さるべし。そこに筋書を見出さんとする者は射殺さるべし。(西田実 訳)

 意味なんてなくてもいいじゃねえか! というパンクな主張です。まあ、ここまで極端に走らなくとも、

 何を書くにしても、それが物語であるならば、面白くなければならない、という観念から私は離れられない――面白く書けたかどうかは別として。
――五味川純平『人間の條件』

 物語だけでなく、すべての文章の書き手が、この気概を持っているべきです。いや、持ってると信じたいんですけどね……そうでもないのかな。  私はそもそも『反社会学講座』のときから、ノンフィクションや社会批評を書いてるという意識はなく、人文書のフリをしたエンターテインメントのつもりでした。ただ、真面目な人文書のフリをするには、入念に下調べを行なって、地固めをしなければなりません。ここまでが「正しさ」の段階です。しかしそこから先は、おもしろさと正しさのバランスをどう取るか、になります。往々にして、「正しさ」は「つまらなさ」であることが多いからです。

 これは正しさからの逃避や放棄ではありません。多くの経済学者や社会学者が基本中の基本を理解していないことに私は呆れかえってしまうのですが、そもそも社会科学には、唯一絶対の正解というものが存在しません。社会科学は自然科学とは違います。社会科学は見方によって白も黒になる、ひどくいいかげんな学問なのです。そこを嫌う人もいますけど、私はそこがまたおもしろいと思うわけです。人生いろいろ、おもしろさもいろいろ、そして正しさもいろいろ。社会科学が正しさばかりに執着すると、ろくなことがありません。それがとくにひどいのが経済学で、だから私は経済学者が(じつは社会学者以上に)嫌いなんです。

 経済学者は、経済学にもいろいろな説があるんだと口ではいうものの、実際には自分の意見と相容れない学説を「奇妙な経済学だ」とか「世間知だ」とかいってこきおろします。そして最終的には彼らの議論はつねに、経済学の教科書の記述に合っているかどうかに行き着きます。教科書というものは、現実に合わせて書きかえられなければならないものなのに、経済学者は現実を教科書に合わせたがるのです。

 私は『研究報告』の161ページで、画期的な年金問題解決法を提示しています。多額の資産を持つ老人への年金支給をいますぐ停止して、代わりに勲章をあげようという案。なぜ経済学者はこの案に乗ってこないのでしょう。この案なら年金問題も階級格差の問題も一挙に解決できますし、老人はノドから手が出るほど勲章を欲しがるというインセンティブ(動機を意味する経済用語)も考慮しておりますから、経済理論的にも非のうちどころがございません。こんなのは現実的でない? 教科書に載ってない? 前例がない? だって、リフレ組親分の岩田規久男さんも、若頭の原田泰さんも、前例がないからという理由でリフレ金融政策を実施しないのは愚の骨頂だとおっしゃっているではありませんか。ね。結局のところ、前例などとは関係ないのです。経済学者は金持ちや勝ち組が損をする策には難色を示すんですよ。だから私の案も無視されるのです。

 経済学にもそれなりの正しさがあることは否定しませんけど、われわれ負け組庶民が経済学の理論に合わせて生き方を変えなければならない理由など、どこにもありません。だからこそ、社会学者は雑草のような社会学魂で、権威主義的な経済学者のケツを蹴り上げてやるべきだと思うのですが、どういうわけか社会学者も歴史学者も、経済学者の権威にひれ伏して提灯持ちをやっています。経済学ってやつには、インテリのココロをくすぐる何かがあるんでしょうね。下流社会に身を置く不埒でお下劣な私には、その魅力がさっぱり理解できませんけど。

[目次に戻る]
[最近の○○バックナンバー 1]
[最近の○○バックナンバー 3]

inserted by FC2 system