最近の○○・バックナンバー 4(2008年〜)

2009年のよかったもの(2009.12.13更新)

 こんにちは。いまちょっとカゼ気味でノドが痛いのですが、とりあえず厄年を無事乗り切れそうで、ほっとしているパオロ・マッツァリーノです。

 ちなみに今年厄年だった人といえば、ダニエル・クレイグさん、ウィル・スミスさん、ヒュー・ジャックマンさんなどがいます。みんな無事だったのでしょうか。タイガーさん……は厄年じゃなかったのかな?

 さて、今年の流行語大賞が、「アハ! 税金払うの忘れちゃった!」に決まったということで、私も脳トレがてら、この一年を振り返ってみました。

2009年のよかったもの

オンリーワンクリップ(文具)
 日常の買い物や通勤通学にクロスバイクを利用してると困るのが、ズボンの裾汚れ。ママチャリと違ってギアがむきだしなんで、オイルで裾が黒くなるんです。自転車屋には、裾をとめるマジックテープ式のバンドが売ってますが、なんかおおげさ。ならば、大きめのクリップで裾をとめてしまおうと思いつき、銀座の伊東屋で探したらおあつらえ向きのがありました。普通のゼムクリップだと針金の先がとがっててズボンの生地を傷めますが、このオンリーワンクリップはきちんと丸めてあるんです。仕上げもいいし、デザインもしゃれてるから、自転車降りたあとうっかりはずし忘れて歩いても、恥ずかしくないです。4個入り210円。

オンリーワンクリップの使いかた

ビレリ・ラグレーン『ジプシートリオ』(ジャズCD)
 5年に一度くらいの周期で、体内の血が騒ぎ、無性にジプシーギターが聴きたくなります。この盤の選曲はおなじみのスタンダードナンバー中心なので、ジャズファンにもおすすめ。ゲストのテノール歌手、ロベルト・アラーニャさんが笑っちゃうくらい情熱的に歌い上げる「ビーマイラブ」がいいですね。フランスの粋。

『接吻』(日本映画)
 なんといっても、小池栄子さんをキャスティングした監督のセンスでしょう。テレビのバラエティーで活躍する小池さんに、この暗くゆがんだ役をやらせようだなんて、普通は考えませんよ。この映画はなんの予備知識も先入観もなく観たほうがおもしろいと思うので、あえてこれ以上語りません。

『アイシテル』(テレビドラマ・マンガ)
 地上波ドラマも捨てたもんじゃないと思わせてくれたほど、心をえぐられた一本。放送終了時には、ラストが不満だとケチをつけましたが、その後原作のマンガを読み、ほぼ原作を踏襲していたのだと知りました。ドラマでは、加害者少年とホームレス老女のエピソードにムリがあるように感じましたが、あれは原作と設定を変えてあったんですね。原作マンガはドラマよりキツいですけど、やはり名作です。  なお、私はコワい映画やドラマばかり見てるわけじゃありません。NHKで地味に放送された『行列48時間』も、先の展開が読めないサスペンスコメディーで、私好みでした。

COWCOWコントライブ(お笑い)
 ソフトなつっこみ、だれも傷つけない笑い。独自の芸風を確立している人たちですが(それが災いして?)、なかなかテレビではお目にかかれません。ライブでたっぷり堪能させてもらい、中堅芸人の実力の高さを再確認しました。ライブの模様はDVD(『コントライブ2』)になってるので、テレビでもの足りなさを感じてたかたは、ぜひ。

 あ、関係ないけど、今年のM−1はパンクブーブーとハライチが決勝に残ってるんですね。ハライチはいつものあのネタやるのか? 私は好きだけど、審査員にはウケそうにないなあ。パンクブーブーはなんでいままで決勝に残らなかったのか不思議なくらいです。いずれにせよ、大切なのは、本番前のごあいさつです。きちんとしておかないと、生放送中に殴られます。

 人のことなどどうでもいいですね。自分の反省をしなければ。今年は書き下ろしを一冊も出せませんでしたが、来年は、出ます出します出させます(?)ので、よろしくお願いします。


最近のメールと健康漫談(2009.11.7更新)

 こんにちは。いつになったら亀井静香さんが「ハリセンボンじゃねえよ!」というギャグを国会でやってくれるのか、やきもきしているパオロ・マッツァリーノです。

 などと、ふざけたことやたわけたことばかりいっておりますが、ときどき読者のかたからメールをいただくことがあります。べつのページにも書いてありますように、返事を出すかどうか保証はできませんが、いただいたメールにはすべて目を通し、参考にさせてもらってます。返事がなくても無視されたとか思わないでくださいね。

 そうそう、ここ数年、携帯からのメールが増えたように思います。ただ、こちらから返信しますと宛先不明などのエラーになってしまうことが何度かありました。どうやら、インフォシークなどのフリーメールは携帯とのやりとりでたまに不具合が出るらしいです。自分の携帯すら使いかたがよくわかってなくて、留守電のメッセージがどんどんたまってくけど、どうやって消すんだ、みたいな状態なのに、携帯関連のテクノロジーがわかるはずもないのですが、そうした技術上のトラブルでメールの返事が行方不明になる場合もあるそうなので、こちらもお含みおきください。

 私の近況。ちかごろは自分の原稿書くので手一杯です。このサイトもなかなか更新できなくて申しわけない。詐欺師でさえ熱心にブログを書いてるというご時世なのにねえ。

 おかげさまで、ってのもヘンだけど、まだインフルエンザにはかかってません。インフルエンザ患者が百数十万人とかいうニュースを見て、「えー、そんな流行ってんのぉ? 街、歩いててもインフルエンザの人なんか見かけないよ」といった人がいましたけど、インフルエンザにかかった人は街なんか歩けないっちゅうの。

 その代わり、持病の痔が少々痛みまして、ドラッグストアで痔の薬を持ってレジに並んでたら、近所のおばさんに、こんにちはーとかあいさつされてちょっと気まずいひとときでした。

 足の甲の一部がやけに茶色くて汚いな、と思ったら、この夏ずっとサンダルを履いて歩いてたので、サンダルの鼻緒のカタチどおりに足の甲が日焼けしてたのでした。そういえば昔、夏場に坊主刈りにしたことがあって、かんかん照りの中を歩いてたら、頭皮が日焼けしてむけたことがあったなあ、なんてことを思い出しました。海水浴のあとに背中の皮がむけるみたいに、頭皮も焼けるとむけるんですよ。知らないと、こんなデカいフケが! と一瞬ビビります。季節はずれの話題ですいません。グラッツェ。


最近の北海道と都市伝説と新世代ブラウザ(2009.10.2更新)

 こんにちは。小悪魔パオロです。他人の家の玄関チャイムを鳴らしてダッシュで逃げたら、家の人が出てきて、「コラー! またやりおったな、小悪魔め!」え、そういうのは小悪魔ではない? 単なるいたずら?

 じゃ、あれだ。これまで一貫して、ハコモノや高速道路建設をムダだと批判し続けてきたマスコミが、八ツ場ダムに関しては、突如として賛成派住民に同情的な報道ばかり流すようになったけど、あれこそが小悪魔の気まぐれです。それも違う? わかりました。秋の連休にシルバーウイークなんてダセぇ名前つけたことこそ、小悪魔のしわざだ。

 どうやらそれも違うらしいので、連休明けで世間が平常に戻ったアフターシルバーウイークに、ふらりと旅に出てみました。前から行ってみたかった北海道へ。まずまっ先に旭山動物園に足を向けたりするところがミーハーですが、ここはやっぱりはずせませんよね。透明な筒の中をすいーっとのぼってくアザラシとか、頭の上を飛ぶように泳ぐペンギンとか見たいもの。他にも、柵の近くにエサの草を置くことで、食べにきたキリンの顔が客のすぐそばまでくるようになってたりとか、おなじみの動物にまで演出を工夫してあるのには感心しました。

 「ここ、珍しい動物はいねえじゃねえか。見せかたがうまいだけなんだよな」とかいうワケ知り顔のおっさんの声が耳に入ってきましたけど、なにいってんの、お金とって客を入れる以上は、見せかたこそがすべてではないですか。それこそがエンターテインメントなんだから。動物に芸を無理強いするのでなく、自発的におもしろい行動をするように仕向ける施設を作り、動物も客もストレスなく楽しめるという発想、なかなかできるものではありません。

 もちろん、中身がしょぼければ、見せかたを工夫したところで限界はありますけど、見せかたや味付けの工夫を軽視して、本質がどう、とかいう議論にこだわる人もどうかと思いますよ。そういうかたは、さぞかしご自分の中身にも自信がおありなのでしょう。

 北海道に行って気づいた新事実。街の中にポツリポツリとLED式信号機が設置されていたこと。なんでそんなことで驚いたかというと、6、7年くらい前ですかね、首都圏に設置され始めたころに、興味を持ってLED信号機について調べたことがあるんです。LED信号機は、電球式信号機のように西日が当たって見えなくなることがないし、消費電力も少ないといった長所がある一方で、当時ネットなどで盛んにいわれてたのが、「従来の信号機は電球の熱で、信号に雪がついても自然と溶ける。しかし、LEDは熱を出さないので、雪がつくと見えなくなってしまう。だから北海道ではLED信号機は使えない」という弱点だったのです。

 いかにもスジの通った説明だったから、なるほどなあ、と私はこれまでずっと信じていたのに、ウソじゃん。北海道にもあるじゃないの、LED信号機。

 で、あらためて調べ直してみたところ、なんと意外なことに、LED信号機の開発過程では、発熱をどう抑えるか、放熱をどうするかが課題だったというじゃありませんか。LEDは熱を出さない、という大前提がそもそもまちがっていたわけで、じつはLEDはけっこう発熱するんです(もちろん電球に比べれば相当少ないけど)。そのくせLEDは熱に弱いという特性があり、温度が上がると光が弱くなってしまうのだそうです。だったら、LED自身の熱で雪を溶かすように回路や構造を工夫することは、じゅうぶん可能なはずです。いや、可能だからこそ、北海道でも導入が始まったと見るべきか。

 急遽、札幌中央図書館に行って、北海道新聞の縮刷版をめくりましたが、私が目を通した範囲では、LED信号機についた雪が原因で事故やトラブルが起きたという記事は見つかりませんでした。旅先で図書館に行く私もどうかと思いますが、そこは自由気ままな一人旅ですから。

 てことはですよ。雪で見えなくなるから北海道ではLED信号機は使えないという説は、実験結果によって得られた科学的な事実ではなかったということになります。LEDは熱を出さないという思いこみに端を発した仮説にすぎなかったのに、それがネットなどで広まり、ある種の都市伝説になって、私も信じてたというわけです。スープカレーのスープにライスを入れるか、ライスにスープをかけるかは、あなた次第。おっと、まちがえた。信じる信じないは、あなた次第。(ボケに多少のムリがあったことをおわびします。)

 あ、ところで今回の更新から、Firefoxでの閲覧にも対応しました。なんていうと、たいそうなことのように聞こえますが、私自身、ホントに対応できたかどうか、よくわかってません。先日たまたま新世代ブラウザといわれるFirefoxを使う機会があって、自分のサイトを見たら画像まわりのレイアウトが崩れているではありませんか。なんとかごまかして修正できた――少なくとも私のパソコンではできたように見えるのですが、HTMLの文法とか詳しくなくて、これまでも適当なまま続けてきましたので保証はできません。フォントを大きくしたりしなければ、とりあえずちゃんと表示できてるのでは? これ以上面倒なことになったら、ブログにでも移行しようかと。


最近の仕事と自称とトレンディー(2009.8.16更新)

 こんにちは。自称プロサーファーのパオロ・マッツァリーノです。

 自称、っていったい、どこまで認めてくれるのでしょうね。自称すればなんでもアリってわけではありません。弁護士などの公的資格は、持ってないのに自称したらそれだけで違法です。そもそも自称というのがどういう状況でのみ成立するのか、とても興味深い現象です。

 今回の覚醒剤所持事件の場合、本人はあくまで、「プロサーファーです」と主張したのでしょう。しかし裏をとったところ、プロサーファーの団体に登録されてないし、プロとしての活動実態もないらしい。まあでも当人がいうんだし? なんとなく見た目サーファーっぽいし? 他に仕事もしてなさそうだし? とりあえず自称プロサーファーってことにしといてやるか、となったわけですよね、私の想像ですけど。

 でしたら逮捕されたとき、「オレは総理大臣だ!」といい張れば、自称総理大臣にしてもらえるのでしょうか。
「離せよ、ばかやろう。オレをだれだと思ってんだ、総理大臣だぞ!」
「はいはい、総理、ちょっと交番でアタマ冷やそうか」
 新橋あたりでは、酔っぱらいと警官のこういう会話が今夜も繰り広げられていることでしょう。

 逮捕時に「オレはガンダムだ!」といったら、自称ガンダムとして報道してもらえるのでしょうか。これはさすがにきびしいか。

 以前、新聞記事で自称暴力団組員という肩書きを目にしたことがあります。他には、自称町の発明家。自称浪花のモーツァルト(一人しかいないけど)

 まとめますと、プロサーファー、暴力団組員、町の発明家、浪花のモーツァルトは自称可。総理大臣やガンダムは自称不可。どこかその中間に線引きされる地点があるはずです。

 そういえば、万引きで逮捕された自称エコノミストって人もいましたけど、その後うわさを聞きません。どうなったんでしょう。逮捕前は、ずいぶん居丈高に経済理論を語ってらっしゃいましたけど、どんなインセンティブで万引き行為に及んだのか、ご本人にうかがってみたいものです。

 さて、新聞記者に自称戯作者という肩書きをなかなか認めてもらえなかった私ですが、書き下ろし本の執筆以外にも、ぼちぼち仕事はこなしております。活動実態はございます。8月末に出る筑摩書房の広報誌『ちくま』9月号に、書評っぽいのを一本書きました。

 ちくま新書が15周年記念だそうで、ちくま新書の中から1冊選んで書評せよとのお達し。このごろ新書はめっきり読まなくなってしまったのですが、文庫だの新書だのでお世話になりっぱなしの筑摩っ子(?)の私としてはむげに断るわけにもいかず、3か月くらい前に古本屋でタイトルに惹かれて買って読んで印象に残っていた『「おろかもの」の正義論』(小林和之 著)を取りあげました。法と倫理について考えさせてくれる良書です。ということでひとつよろしく。あ、『VERY』連載のブックガイドも地味に続いてますのでよろしく。

 ところでみなさん、ドラクエやってますか? なぁんてちょっとトレンディーな(トレンディーって……)フリをしてみましたが、私、ドラクエは一作もやったことがありません。他人が遊んでるのを見てたことがあるんですが、なんで何歩か歩くたびにスライムと戦わねばならないのか、意味がわかりません。きっとロールプレイングゲームって、面倒くさがり屋にはむかないゲームなんですね。

 村上春樹さんの新作も読んでないし、自分の非トレンディーぶりを痛感します。村上さんの小説は、過去4冊くらいチャレンジしましたが、どれも途中で投げ出しました。きっと面倒くさがり屋にはむかない小説……なわけないか。単に世界観に興味がもてないだけです。小説ってそういうもんですよ。たとえば、ミステリーファンが選んだ今年度ナンバーワンの驚愕密室トリック! なんて小説だって、ミステリーのロジックに興味のない人にとっては、なんで密室で人殺さなきゃならないの? てなもんです。最終的には好きか嫌いか、ノレれるかノレないか。批評なんてものは存在しない、エラそうな言葉で書かれた感想にすぎないというのが私の持論です。

 いま一番トレンディーを目指すなら、なんといっても裁判員です。なりたくても自分からはなれませんけど。でも、裁判員制度に反対してる人がけっこういるんですよねえ。意外です。

 それこそ芸能人が不祥事を起こすたび、みんな断罪しまくってるじゃないですか。「事務所の処分は生ぬるい!」「反省の色がまったく見えない!」なんてね。みんな他人を裁きたくて、うずうずしてるじゃないですか。裁判員になれば日当もらって他人を裁けるんですよ。みなさんの夢がかなうんですよ。だから裁判員制度は歓呼の声で日本社会に迎えられるかと思いきや、実際始まると尻ごみするなんて、おかしな人たちです。

 とりあえず、やってみたらいいじゃないですか。裁判員制度はさいわいにも、いったん導入したら取り返しのつかない制度ではありません。いつでも元に戻せます。ですから、2、3年やってみて、これはどうもダメだ、日本人にはむかないわ、ムリだ、となったら、やめればいいだけの話です。そんなに拒否反応を示さなくても。


最近の政治と炭酸とドラマとポメラ(2009.7.2更新)

 こんにちは。私というワインを完熟させてくれるパートナーを求めている、パオロ・マッツァリーノです。

 エロばなしはこれくらいにしまして(違うけど)、正直いいますが、私は東国原さんという人をあまり好きにはなれません。でも、今回の件に関しては、当然の要求をしただけであって、バッシングされるいわれはないはずです。

 地方とはいえ、仮にも県知事、首長ですよ。その地位を捨てて国政に参加し、党の立て直しに協力してくれと頼むなら、自民党もそれ相応の地位を用意するのが礼儀というものでしょう。

 一般企業にたとえるなら、老舗の一流大企業が経営難に陥っているんです。しかも社内には次期社長を任せられるような人材がいない。だとしたら、外部から人材をスカウトして社長に据えるのが、最良――というかほぼ唯一の経営立て直し手段です。なのに、「あんな田舎の中小企業の社長ふぜいが、わが社の次期社長だと? 顔洗って出直したまえ」くらいの認識しかない社員がいる。会社の危機をまったく自覚していない、そんなポンコツ社員こそ、まっさきにクビにすべきです。

 しかも東さんは、総理にしろとはいってません。総裁候補にしてくれと要求しただけです。なんとも日本人らしい謙虚さではありませんか。欧米人ならおそらく、総裁の椅子プラス支度金5億円用意しろ、オレを評価するならな! くらいのずうずうしい要求をしてきますよ。

 その一方で、県知事という地位は、県民という株主の総意で選ばれたものだというたとえもできます。そうなると、その地位を途中で投げ出して国政に転じるのは契約違反だとの見方も当然、成り立ちますよねえ。もし任期途中で国政に転身するなら、残りの任期にもらうはずの給料総額と退職金全額にあたる額を、逆に違約金として県に支払いなさい、くらいの要求をしてもいいんじゃないですか。そのくらいのお覚悟がおありですか、と問う権利は、県民にもありますよ。

 夏になると無性に飲みたくなるのが、キリンのNUDA(カタカナ表記だとヌューダ。発音不可能)って炭酸飲料のグレープフルーツ風味。え、飲みたくならないの? 私だけですか?

 味がない、という理由で、世間的にはすこぶる不評みたいなんですよ。たしかにプレーンのNUDAは、なんか忘れものした? みたいな味なんですけど、グレープフルーツ風味は、まさに味がないことで爽やかな風味が引き立ってる、と思うのですが。

 カロリーゼロとかいうんじゃなくて、暑い日中には、単純に甘くない炭酸が飲みたいんです。昼間っからグレープフルーツハイってのもなあ。どんどんダメ人間になりそうだしなあ。

 先月絶賛したテレビドラマの『アイシテル』ですが、最終回が残念。なんであんなに無難にまとめてしまったのかと。

 せっかく序盤は、安易な倫理を切りさくような描きかたをしていたのだから、最後も少しくらい苦い後味を残してもよかったはず。なのに、口の中をすすいで、きれいさっぱりして終わらせちゃった印象です。あのへんで折りあいをつけないと、地上波ドラマは視聴者に見てもらえないのでしょうか。脚本家が本当に描きたかった終わりかたというのが、もしあったのなら、そちらも見てみたかった気がします。

 ポメラ、買いました。この原稿もポメラで書きました。

 私は昔から、パソコンのテキストエディタで原稿を書いてますので、ポメラのシステムにも、すぐに慣れました。キーボードですべて操作するのが、なんだか、ウィンドウズの前のDOS時代に戻ったような懐かしい感覚。

 なんといっても素晴らしいのは、長時間使っても熱くならないこと。近頃のパソコンって、熱、出しすぎでしょ。ノートパソコンで原稿書いてるだけなのに、10分もたたないうちに横っちょからブオーって熱風が吹き出します。真空管アンプでも入ってんのか、みたいな。

 キーボードはギリギリ打てる大きさです。フルキーボードに慣れた身には、やや窮屈ですが、ベコベコした感じはまったくなくて、最近流行りのミニノートパソコンのキーボードよりもしっかりしてます。ポメラで下書きしたものをパソコンで仕上げる、という使いかたなら、これくらいでじゅうぶん。

 ひとつ誤算だったのは、充電池のエネループを使うと、動作が不安定になったこと。エネループは持ちがいい代わりに初期電圧が低いんです。たぶんそのせいで、まだ残量がたっぷりあるのに、「電圧が下がってます、電池を交換してください」という表示がしつこく出るときがあります。ふつうのアルカリ電池でも、思った以上に長持ちしますが、電池を何個も捨てるのって、やっぱりちょっとムダな感じ。ここは改良を望みます。もしくは、別売りでもいいからACアダプターを使えるようにしてほしい。私は電気回路にはまるでシロウトなんですが、電池ボックスの部分を改造してACアダプターつけられそうな……無理ですかね。

 とりあえず、しばらく使ってみます。ちょっとクセはありますが、使ってみようという気にさせるおもしろい機械ですね。使い続けるかどうかの判断は、そのあとで。


最近の仕事とパクリの薄気味悪さとおすすめドラマ(2009.5.30更新)

 こんにちは。ポメラを買おうかどうか迷っている、パオロ・マッツァリーノです。

 東京メトロのフリーペーパー『メトロミニッツ』6月号で、拙著『コドモダマシ』が紹介されてます。ありがとうございました。フリーペーパーなので、もう残ってないとは思いますが。けっこう、フリーペーパーって、あっというまになくなりますよね。

 発売されてだいぶ経ってから本が紹介されるというのも嬉しいものです。もちろん、発売時に取りあげられるのがセールス面ではベストとはいえ。『コドモダマシ』は本当におもしろいんで、いまからでも決して遅くはないです。読まず嫌いは損ですよ。

 口コミであとから売れる感動本なんてパターンもあるにはありますけど、そんな感動本もパクリ疑惑で回収されちゃったら、だいなしです。まあ、あのディズニー本の場合は、プロの物書きや出版関係者から見れば、疑惑どころか完全にクロですけどね。だから、著者のかたがいきり立ってヘリクツ並べて反論してたのには呆れました。あのかたに必要なのは反論ではなく、プロの物書きとしてのルールを、イチから学び直すことだとご忠告しておきます。

 パクリに関しては、型を学ぶのに不可欠とか、リスペクトしてるだけとか、マネされるのは名誉だとか、この世の創作物はすべて過去の遺産の再生産なのだみたいな開き直りとか、なんだかんだと理屈をつけて正当化する人が絶えません。どんな言葉で飾ろうと、一皮むけばすべて、オリジナリティーがない人の負け惜しみにすぎないのに。

 程度の問題もあるんで、多少なら目くじら立てることもありませんが、パクリって一度手を染めるとクセになりやすい麻薬だというのも、肝に銘じておかねばなりません。

 それと、これだけはいっておきますが、時間をかけて真剣に創ったものをあっさりパクられるのは、やっぱりイヤなもんです。以前、反社会学講座のパクリを臆面もなくネット上でやってる人がいましたからね。自分の作品の劣化コピーを得意げに公開してる人がいるという薄気味悪さは、パクられた経験のある人にしかわからないでしょうねえ。

 さてさて、私は『ヴェリィ』誌上で毎月他人の本を紹介する仕事をさせてもらってます。というか、あれはブックレビューなのか? おすすめの本をサカナにして、単にコントを書いてるだけなのではないか? という疑惑も周囲で浮上してますが、それについてはもちろんクロです。私はありきたりのブックレビューとは異なるものを書きたいからです。

 普通、女性誌の新刊紹介ページといったら、感動小説か料理レシピ本くらいしか取りあげないものですが、私は社会や文化に関する本をおすすめしてます。ただ、ギャラもらって書いてる以上、読者層を意識してます。30代主婦にも興味のもてる話題にかぎってます。温暖化、住宅購入、教育、お金持ちの暮らし、などなど。

 しかも取りあげるのは新刊でもありません。数年前に出た本でも、現在書店で購入できるものなら紹介します。新刊レビューばかりでなく、埋もれているおもしろ本にスポットを当てるという作業もしないと、ますます本が消耗品化してしまいそうですし。というわけで、立ち食いそば屋兼古本屋(という設定の)パオロが悩める奥さんに本をおすすめするヴェリィ連載、お読みいただければさいわいです。

 今期、4月からのテレビドラマで見続けてるのは、『白い春』と『アイシテル』。
 『白い春』は初回、ずいぶんベタな話だなと思いましたが、脚本の尾崎さんがあえてベタをやろうとしてるのではないかという意気込みを感じたので、見続けてます。なんか私もこの歳になると、娘をめぐる二人の父の心情に、毎回涙出そうになります。

 そして問題作の『アイシテル』。小学生による殺人事件と、家族の再生がテーマ。被害者側だけでなく、加害者の家族を中心に描くという、挑戦的なドラマです。重い。重すぎる。でも必見。とりあえずジャニーズをキャスティングしとけみたいな安易さが目立つ民放テレビ局ですが、こんなドラマを作って放送するのなら、まだ捨てたもんじゃない。

 週刊誌の批評で、加害者の父親が事件発覚後すぐ、こどもよりも自分の仕事のことなんかを心配してたのはおかしい、とありましたが、それは人間の見方があまりにも浅い。私は逆に、加害者の父がまず漏らす「おれ会社クビかなあ」というセリフに、ゾッとするほどのリアリティーを感じました。安易な紋切り型の人間描写に流れぬよう筆を進める脚本の秀逸さを、なにをおいてもほめるべきです。それだけに稲森いずみさんは演じるのがたいへんだろうなあ。

 で、とりあえずジャニーズの『ミスターブレイン』ですが、『トリック』の蒔田脚本だけあって、上出来のエンターテインメントじゃないですか。タダで見られる娯楽作にあれ以上なにを求めるというの? ケチつけようと手ぐすね引いてた自称辛口テレビ評ライターたちも、及第点の内容に拍子抜けしたご様子。悔しまぎれに重箱の隅つつきまくってたライターもいましたが、ああいうのは素直に楽しめば、それでよろしい。


最近の公然わいせつとお笑いライブといただいた本(2009.5.6更新)

 こんにちは。ひと月ぶりのごぶさたです、パオロ・マッツァリーノです。文庫の『続・反社会学講座』をお買い求めくださったかたがたには、お礼を申し上げます。世間ではいろいろなことが起こった1か月でした。

 酔っぱらった有名タレントが深夜、民家のそばで騒いで迷惑をかけたという点はまったく問題視されず、彼が全裸だったことの是非ばかりが議論されるんですから、日本人の価値観・道徳観は、やはりつくづくヘンテコです。こう整理してみれば、そのヘンさ加減がわかるはずです。
A. 深夜、民家に隣接した人気(ひとけ)のない公園で、タキシードを着て大騒ぎする。
B. 深夜、民家に隣接した人気のない公園で、全裸で静かに読書する。

 どちらがより迷惑で、犯罪として取り締まるべきか、明らかじゃないですか。だいいち、警察に通報した人だって、夜中に騒いでるヤツがいるからなんとかしてくれ、といったわけでしょ。全裸の男を逮捕しろと頼んだのではないんです。つまり、彼が罪を問われるとしたら、騒音防止条例違反(もしくはそれに類する迷惑行為を取り締まる法律違反)であるべきで、公然わいせつはオプションにすぎないのです。

 さて、ゴールデンウイークは、いかがおすごしだったでしょうか。私はかなり時間の自由がきく物書きという職業柄、なるべくすいてる平日に出歩いて、世間の休日にはうちでじっとしているよう心がけてます。

 とはいうものの、1日だけ出かけました。COWCOWのライブを見に下北沢へ。お笑いの単独ライブというものに、はじめて足を運んだのですが、それがまたなんでCOWCOW? 大ファンというわけでもなかったのですが、テレビでネタを見るたびに、もうちょっと長く見てみたいなあと、かねがね思っていたところ、たまたまライブ開催を知り、たまたますべりこみでチケットを取れたもので。これもなにかのご縁ってことで。

 期待を裏切らない出来でした。ホームランか三振かみたいなネタはあえて避け、ヒットで出塁、バントで送るというようなネタの連打で、上演中ずっとこちらの頬をゆるませ続けてくれるベテランの技。かといって、守りに徹してるわけでもなく、新ネタで攻めるべきところは攻めているのが小気味いい。こりゃすべったな、と感じたネタは、ほとんどなかったような。帰りの電車の中で、ふとそう思って、あらためて感心しました。
「おはようからおやすみまで、暮らしを見つめるストーカー」
「ミキプルーンで、ケツぷるーん」
 みたいな小ギャグ(文字だけだとリズムと動きが伝わらないので面白さ半減)や、ブログで犯人逮捕を実況中継する刑事のコント、おなじみのパターンの漫才などで笑わせてもらいました。そのうちDVDにもなるそうなので、興味のあるかたはどうぞ。

 さてハナシ変わりまして、これまた職業柄、出版社のかたから本をいただくことがけっこうあります。本って、不思議なもので、もらってイヤな気分はしないんですね。結婚式の引き出物とかだと、「なんだこんなつまんないもん寄こしやがって!」と殺意がみなぎることもありますよね。新郎新婦の名前入りの皿とか、バカみたいにメルヘンチックなデザインのティーポットとか。

 でも本は、たとえ読んでみてつまらなかったとしても捨てちゃうだけだし、おもしろければトクした気分になれます。どこかで紹介したり薦めたりすれば、くれたかたにも喜ばれるし。

 先日は、『総特集 吉田戦車』(河出書房新社)というムックをいただきました。その中の「吉田日記」に、反社会学講座の表紙を描きましたという一節を見つけ、なんか嬉しくなりました。自分の本の表紙でお世話になってるわりには、『伝染るんです』以来、吉田さんのマンガは読んでいません。今度、また他の作品も読んでみます。

 もう一冊、VERY連載のよしみでいただいたのが、『ウェブはバカと暇人のもの』(中川淳一郎著・光文社新書)。なんとも挑発的なタイトルで、中身も劣らず挑発的。でもここに書かれていることはほぼ真実でしょう。真実はときに人を怒らせますので、激昂する人もいるかもしれません。もしくは、図星をつかれた内心の動揺を隠すため、あえてシニカルな態度で反論するのかな。

 影響力という面で、ネット(ウェブ)はテレビに遠く及ばないという指摘には納得です。世間の人たちは、テレビで流行っていることにはかなり詳しいけど、ネットで流行ってることや用語はほとんど知らないんですよね。私も「リア充」なんて言葉、この本を読むまで知りませんでした。

 まあ、私自身、ネットで評判が広まりブレイク(?)したクチなので、ネットに可能性があることは認めます。しかし、それももう7年くらい前のこと。なんでも最近はもう、ネットからブレイクする人がいなくなってきているらしい。ネットが普及しすぎて、ネットの中に埋もれてしまう人が増えたのか? つらい努力をしてプロを目指すより、ネットで気楽に発言するほうを選ぶのか? 私はネットの黎明期・発展途上期に始めて、たまたまラッキーだったってことなんでしょうか。

 ネットは便利な道具だけど、社会を(そしてあなたの人生を)根本から変えるようなものではない。ネットに過度な幻想を抱くのはやめよう、現実世界でもっとがんばろうという結論には、もろ手をあげて賛成します。


文庫版『続・反社会学講座』発売と、かなりきつめの環境論の続き (2009.4.2更新)

 こんにちは。「噛む〜とふにゃんふにゃん」というガムのCMソングがここ数日、頭の中でパワープレイ中のパオロ・マッツァリーノです。ダンスコンテストにも参加します(ウソです)

 先月より始まりました雑誌『ヴェリィ』の連載、お読みいただけたでしょうか。編集部内では好評だったとのことですが、読者の30代奥様の反応はどうでしょう。今後も引き続き、主婦のハートをつかむべく精進いたします。『ヴェリィ』は毎月7日発売――みたいです、たぶん。

 そして、4月9日、10日ごろ書店に並ぶはずなのが、ちくま文庫の『続・反社会学講座』です。

 誤解のないよう、先におことわりしておきます。これは2005年に発売された『反社会学の不埒な研究報告』の文庫化です。新作ではありませんので、あわてて買ったあとで気づいて、単行本持ってるのにー、とかいわないでくださいね。

 そのあたりの文庫化の経緯については、文庫版のまえがきに詳しく書いておきましたので、そちらをお読みになってください。『反社会学講座』文庫版と同様、本文には必要最低限の修正しかしていません。発売後の社会情勢の変化や、寄せられたご意見・異論・いちゃもんなどもろもろに関しては「4年目の補講」として加筆収録してあります。

 表紙はまたまた吉田戦車さんに再登板していただきました。個人的にぜいたくな希望としては、毎回本を出すたびに、違うかたが描いたパオロ・マッツァリーノの想像画を見たいのですが、今回は正・続編なので、表紙イメージも統一感を持たせたほうがよかろうという編集部の提案にのりました。もちろん、吉田さんは期待を裏切ることなく、これまでにない躍動感あふれるパオロ像を描いてくださいました。ぜひ書店で手にとって現物をご覧ください。そして、あなたの書棚のコレクションに加えていただければさいわいです。

 さて前回、私がエコ懐疑派の味方はしないと宣言したことで、なぜなんだ! と驚きとも当惑ともとれるメールを何通かいただきました。ということは同様の感想をお持ちのかたが他にもけっこういらっしゃるのでしょう。メールをくださったかたには返事を出しておきましたが、ここであらためてご説明しておきましょう。

 まず、ややこしくしないためにも整理しておきます。私が見たところ、エコ・環境・温暖化問題への立場はおおまかにいって4つにわかれるようです(一般には肯定派・懐疑派という分類が使われますが、肯定派という表現は誤解を招く気がするので、ここではあえて私見で定義しておきます)

エコ強行派→このままでは地球も人類も破滅だ。いかなる犠牲を払ってでも地球環境を守れ。温室効果ガスも全面規制を目標にすべきだ。
エコ推進派→環境の変化や温暖化が問題であることは明らかだ。なんらかの対処をすぐに始めなければいけない。ただし可能な範囲内で。
エコ懐疑派→温暖化や環境問題はあるのかもしれないが、差し迫った問題ではない。他にやるべきことがいっぱいあるだろう。
エコ否定派→温暖化や環境の変化なんてウソっぱちだ。そんなもんにダマされてはいけない。エコ運動なんて利権や偽善だ。

 まあ、こんなところでしょう。私はいろいろな資料や意見を読んで検討した結果、この中だったら、推進派を支持すると宣言したのです。強行派には困ったもんだけど、むしろ私としましては、多くのみなさんが、懐疑派や否定派が展開する矛盾だらけの理屈や社会性ゼロの机上の空論、誤解にもとづいた主張などをなんの疑問もなく平然と受け入れてることが、不思議でならないのです。

 メールをくれたかたに共通する意見は、私はいつも少数派の味方をしていたのに、なんでエコに関してはそうじゃないんだ、というものでした。うーん、なんかまずそこに誤解があるようですね。私はあいにく、少数派の味方をしようだとか、つねにうがった意見をいおう、マスコミに踊らされる世間のバカな連中を批判しよう、などという考えは持ってません。自分がおもしろいと思えばブームにも乗るし、自分がなにか疑問を抱いたら、本や資料で調べます。その結果、世間に流布している常識と事実は違うということがわかった場合、それを批判的におもしろおかしく取りあげてるだけのこと。

 たとえば、少子化や少年犯罪に関しては、なんかヘンだ、ホントに問題なのかと疑問を持った、いろいろな資料や意見を読んで調べてみた、そしたら実情は世間でよくいわれてることとは違うことがわかった――だから批判したんです。自分が納得もできないことを、ただ少数派だからというだけで味方なんかしませんよ。

 エコに関しても、5、6年くらい前は、ホントかよと疑問に思ってました。ただ当時はまだ、推進派も懐疑派も決定打に欠く感がありまして、だから『反社会学講座』の「夏季限定首都機能移転論」では、環境問題はあちらを立てればこちらが立たずだなあ、ということをネタにしたんです。

 飽きっぽい私は、そのあと環境問題への関心が失せ、距離を置いていました。その間、エコ運動がじょじょに盛り上がりを見せていたことは知っていましたが、ビックリしたのは、懐疑派が大ブレイクして、懐疑派学者がマスコミでひっぱりだこになったことでした。

 おやまぁ、けったいなこともあるもんだ、と懐疑派の著作に目を通したり、彼らが出演するテレビを見たりしたところ、私は彼らにこそ懐疑の目を向けるようになってしまったのです。

 たとえば、北極海の上の氷が溶けても海面は上昇しないという説明。小中学生の理科のテストなら先生はマルをくれますが、入社試験でそれだけの説明しかできなかったら、不採用でしょうね。実社会で求められるのは教科書の理論ではなく、現実に即した思考ですから。もし仮に北極海上の氷が溶けるほどの気温や海水温の上昇があれば、当然、北極海沿岸の地上の氷も溶けて海に流れ込んでいるはずと考えるのが妥当です。つまり、この問題に関しては、思考実験や議論でなく、実際の観測データや沿岸の気候変化を実地調査して検討するしかないんじゃないか、ってくらいの思考もできない科学者は、どんな頭してるんですか。

 テレビでも懐疑派科学者が発言してました。レジ袋をすべて廃止しても、日本で使う年間の石油消費量の0.2%の節約にしかならないから意味がない、と。んん? ちょっと待ってくださいよ。日本の年間石油消費量ったら、莫大な量でしょう。その0.2%なら、かなりの節約になっちゃうのでは? このとき学者は具体的な数値をまったく口にしなかったのですが、実数を伏せて相対的な数値だけを発表するのは、統計マジックの常套手段です。架空の例ですが、毎年日本人の0.2%が治療法のないオッペケぺー病で死ぬ、と聞いたらどう思います? 治療法を開発するのは、たった0.2%しか救えないからムダなコスト? でも実数にしたら約24万人ですよ。ほっといていいの?

 科学者の9割は温暖化がウソだと知っている? その根拠は、どこかの学会に出席した学者にアンケートをとったところ、1割が「今後温暖化するだろう」、2割が「寒冷化するだろう」、7割が「わからない」と答えただけなのだそうです。理系の学部ではそんな調査報告が許されるんですね。残念ながら社会学の統計調査実習でそんなずさんなレポート出した学生は、零点です。

 エコより他にやるべきことがあるだろうという懐疑派のご意見。これなんかちょっとオトナの香り漂う感じ。でも、「それより他にやることがあるだろう」と相手を牽制するのも、これまた詭弁術・説得術のテクニックとしては古典的なんですねえ。これって、万能なんですよ。だって「他にやること」なんて、つねに無限に存在するんですから。じゃあ、他にやることってなによ、と聞くと、その人の利益になることを優先したいというのがオチ。「他にやるべきこと」は「自分がトクすること」の婉曲表現にほかなりません。

 とまあ、懐疑派の主張には、科学の専門知識がない私が社会常識で考えてわかるようなおかしな点がいくらも見つかるわけですよ。すでに推進派の科学者たちは、科学的な見地からも、懐疑派の主張のほとんどに反論してくれてます。懐疑派を支持する一般の人たちは、反論があるという事実も知らず、懐疑派の一方的ないいぶんだけを聞いて、なんとなく支持したり、知的少数派を気取ってるだけなのではないですか。

 なににしても、疑ってみること、懐疑的に物事を見るのは大切です。とはいえ、疑いに対して相手から説明があり、それになるほどな、と納得できたら懐疑は引っ込めなければいけません。それでも納得できないのなら、どこがまだ疑問なのか、自分の意見を明らかにすべきです。エコ懐疑派は、そういったプロセスすら無視してます。なにをいわれても自説を曲げないとしたら、それは懐疑論ではなくイデオロギーか信仰か、あるいは単に、人間嫌いのひねくれ者です(←この可能性がけっこう高い)。私は人間も社会も好きなんで、そういう人と一緒にされては困ります。

 そもそも、実際にエコ運動によって深刻な被害を受けている人って、ほとんどいないんですよね。ただ不愉快だから、面倒だから、気にくわないから批判する。われわれは論理ロボットではなく人間ですから、感情的な批判をするのもそれはそれでけっこう。一杯やりながら好き嫌いで議論するのは愉しいですしね。でもね、それだと田中義剛批判をする連中と同じレベルなんですよ、そこのところは意識しといてね、と前回私は釘を刺したんです。

 最終的に環境問題は、石油の消費量をいかに抑えるか、にかかってると思います。ゼロにしなくてもいいんです。なんだかんだいって石油は人類史上、もっとも使い勝手のいいエネルギーですから、たぶん永久に手放せない。だったら、節約と技術革新で使用量を大幅に減らす以外に道はありません。

 このようにいうと、懐疑派科学者は「昔の公害だって、技術革新で克服したんだから、エコだって騒ぐ必要はない」などとおっしゃいます。しかし、それこそが最大のウソなんです。

 懐疑派科学者には前科があります。70年代に公害が社会問題になったとき、かなりきびしい自動車排気ガス規制をすることになりました。そのとき公害懐疑派科学者と評論家は「大気汚染と車の排ガスの因果関係は科学的に証明されてない。世間の論調にダマされるな。そんな無意味な規制をしたらエンジンの開発費に莫大な費用がかかり、日本の産業は破滅するだろう」と大騒ぎしたんです。

 結局その後、規制をクリアするエンジンや、その他の公害防止に関する技術は続々開発されました。しかしそれを開発したのは、公害は深刻な問題だ、なんとかせねばと前向きに考える科学者や技術者だったのです。公害懐疑派の科学者は、なにひとつ有益な研究をしませんでした。

 そしていま。当時、公害懐疑論を主張してた科学者や評論家は、反省も謝罪も感謝の言葉もなく、昔よりキレイになった空気を吸いながら、のうのうと老後をエンジョイしています。めでたし、めでたし。


最近の仕事とちょっときつめの環境論 (2009.3.7更新)

 もしもし、ニシマツさん? オレオレ。オザワ。ちょっと資金繰りが苦しくてさあ。大至急、もう2000万ほど振り込んでくれない? あ、それでね、口座を変えたから、いまからいうところに振り込んでほしいんだけど……

 お年寄りのみなさん、振り込めサギには気をつけましょう。

 あらためまして、こんにちは。パオロ・マッツァリーノです。

 さて、この春から雑誌『ヴェリィ』に連載をすることになりました。いま発売中の4月号からスタートです。ヴェリィ? そう、30代主婦向け雑誌ですね。ね、って私も読んだことはなかったのですが、なんでも『コドモダマシ』に登場する一家はヴェリィ読者層の理想と重なる部分があるのでああいう感じでひとつ、みたいに依頼されましたので、お引き受けすることにしました。

 やっぱりおんなじことばかりやってちゃいけませんね。現状維持というのは、ゆるやかな死、ですから。少しずつ新しいことにチャレンジしていかなければいけません。『コドモダマシ』で新たな作風に挑戦したことが、またべつの仕事に結びついたわけですし。

 連載の内容は、基本的にはブックガイドです。新刊にこだわらず、少し古めの本でも絶版になっていないかぎりはおもしろければ取りあげたいと思ってます。ただ、普通の書評とか本の紹介なら、うまい書評家が山ほどいますので、彼らと競うつもりはありません。私は私なりの趣向で行きます。『コドモダマシ』のスピンオフといった位置づけで、『コドモダマシ』の舞台となっている同じ町内のべつのご家族、その奥さん(お母さん)が、商店街で立ち食いそば屋兼古本屋を営むパオロさんのところにいろいろな相談や疑問を持ち込みます。すると、こんな本はいかがでしょう、とパオロさんがおすすめする、と。ご興味のあるかたはお読みいただければさいわいです。

 その連載の第1回では、温暖化に関する本を取りあげています。雑誌は主婦読者向けなので、やんわりとした書きかたしかしなかったのですが、ネットには反エコ・嫌エコのかたも多いようですから、はっきりと申し上げておきます。以前からいってるように、私はいわゆる環境問題懐疑派、温暖化懐疑派という人たちの味方はしません。

 もともと温暖化に対する懐疑論ってのは、地球にやさしく、エコエコ、と騒ぐ連中に、ケッ、なにいってやがる、みたいな反発から始まったわけで、たとえていうなら、なんだよ最近テレビつけるとやたらと田中義剛が出てやがってキャラメルとか肉屋の宣伝ばっかりしやがって、電波を私物化すんなよこの三流芸能人が! みたいな、どうでもいい怒りといらだち。こういう批判をする人たちはべつに田中義剛さんを本気で憎んでるわけじゃなく、なんとなく気にくわないというだけのことなんです。エコ運動に対する批判も初期のころはそういうなんとなく気にくわないってレベルでした。その程度ならなんの問題もありません。

 ところがいつのまにか議論がエスカレートしてしまいました。議論が好きな人はプライドが高いことが多いので、ケンカ売った以上、もう引くに引けない。いまじゃ議論のための議論、とにかく相手の主張にちょっとでも科学的な不具合があれば、ケチをつけまくっておのれの科学知識をひけらかそうという、イヤミな批判合戦になっちゃいました。

 私はかねがね、世の中は正しくするのでなく、おもしろくすべきだと主張してきました。いまの世の中の状況をあらためてじっくり見渡すと、エコブームに乗っかってる企業とか学者のほうが、世の中をおもしろくしてるんですよ。

 たとえばホンダのインサイトというクルマがモデルチェンジしました。ハイブリッド車です。現在、私はクルマへの執着はまったくなくて、どうしても必要になったら軽自動車を買えばいいやくらいの気持ちでいます。その私でも、新型インサイトには興味を惹かれました。

 トヨタのプリウスって優等生的で、なんかつまらない。そのくせ表面だけ近未来っぽいデザインなので乗るのが恥ずかしい。インサイトは最近のほかのホンダ車と同じ顔つきです(うしろの二段窓がプリウスのマネだという人がいますが、あれはホンダのほうが20年くらい前からやってるデザインなんです)。いかにもホンダらしく、スポーツセダン風の味付けもしてあるようで、エコ商品だけど、押しつけがましいエコでなく、愉しそうなクルマとして成立しているあたりがいいですね。

 こういうおもしろい製品の企画が通って市販されたのも、もとはといえばエコブームのおかげじゃないですか。すでに世間では、エコを楽しもうという流れになってきてるんです。エコはもう、義務でもガマンでもないんです。エコブームに乗った企業のほうが、もっとおもしろいものを作って消費者に買ってもらおうという前向きの気概に満ちてます。これは偽善でもなんでもない、立派な収益事業です。

 次世代エネルギーの開発やリサイクル技術の改良にたずさわっているのは、環境問題や温暖化を危惧する科学者や技術者です。よし、みんなが困ってるなら、俺がなんとかしてやろうじゃねえか、という科学者魂、技術者魂。そういう研究には、わくわくします。CO2を利用してプラスチックを作ろう、とかね。

 さて一方で、懐疑派の科学者(とそれに味方する学者・評論家)は、なにか世の中をおもしろくしましたか。5、6年前から同じ批判を繰り返してるだけじゃないですか。彼らの意見にはちっともわくわくしないんですよ(正しさへのこだわりが進歩を止めてしまうというお話は『日本列島プチ改造論』を参照)。もし仮に環境懐疑派の科学者がホンダの経営者だったら、「エコカー? そんなもん作るのは偽善だ、そんなもんで地球は救えないから開発はやめなさい」と一笑に付して、インサイトが世に出ることはなかったはずです。

 エコは利権だ偽善だなんて批判は、もうみっともないからおやめなさい。まともなオトナ、まともな社会人なら、利権にも偽善にも無縁で生きていくことなど不可能だとわかってるはずでしょう。環境問題にかぎらず世の中のことを偽善なんて青臭い言葉で批判するのは、若者ならいいですよ。でも、いい歳こいたオッサンが口にする言葉ではありません。私も昔は使いましたが、いまは恥ずかしくて使う気にもなれません。

 偽善も矛盾も認めた上で、ときに妥協し、ときに戦い、前に進むのがオトナってもんです。加齢臭がただよう歳になっても、偽善なんて大っきらい! とかいってる純粋すぎる気色悪いトッチャン坊やとは正直、話もしたくない。

 私は若いころ、おっさん連中のいいぶんが嫌いでした。自分がおっさんになれば、おっさんの気持ちがわかるようになるのかなと思ってましたが、どうもそうはいかないようです。自分がおっさんになればなったで、やっぱり他のおっさんのいいぶんにはイラつくんです。

 最近、私の著作から毒が薄れたとご不満の若い読者もいらっしゃるようですが、ご安心ください。私はまだまだ、おっさん学者やおっさん評論家とお友だちになれそうにはありません。


最近の仕事と春からの仕事 (2009.2.16更新)

 こんにちは。ダニエル・クレイグさんと同い年のパオロ・マッツァリーノです。今年厄年です。てことはダニエルも?

 『日本列島プチ改造論』ですが、おかげさまで増刷がかかりました。熱心なかたはネット連載時に毎週読んでくださってたので、本まではどうかなあと思ってたのですが、けっこう多くのかたに買っていただけたようで、ありがとうございます。

 そして書店のみなさまにも、いつもながら感謝です。営業のかたの話では、今回はアキバの有隣堂やジュンク池袋、有楽町三省堂などでよく売れているとのこと。『コドモダマシ』のとき強力プッシュしていただいたリブロ吉祥寺店には、イタリアっぽい(?)コメントを書いてハンコを押した本を10冊ばかり置かせていただきました(売れ残ってなきゃいいけど)

 軽いコラムに仕立ててますが、惜しげもなくアイデアや提案を盛り込んでいますので、じつはとても中身の詰まった読みごたえのある本なんです。大学のセンセイが書いた社会批評みたいなコラム本をよく書店で見かけますけど、ああいうのは私の本とは真逆。もったいぶった見識や思想を披露するばかりで、具体的な提言はなにもなかったりするんですよね。具体的なことをいわなければ具体的な批判も受けないわけだから、安全パイです。思想なんてものでメシが食えるんだから学者はしあわせですね。研究費もかかんないし。仕事の質や量、社会的貢献度を考えれば、文系の大学教授の給料は現状の半分くらいでじゅうぶんでしょう。イヤならやめてもらえばいい。年収500万円くらいでも大学教授やりたいってヤツは掃いて捨てるほどいますよ。

 なあんて、久々に毒吐いてみたりもしつつ、政治からシモまで、こんなにおもしろいアイデアをこんなにも軽々しくたくさん発表しちゃっていいのかしら。しかも100本のコラムで1500円、1本あたり15円! ティータイムのおともに、通勤・通学時の現実逃避に、読み切りサイズの愉快なコラム集『日本列島プチ改造論』をぜひどうぞ。

 あ、『コドモダマシ』ももちろんお忘れなく。教育関連のネタはおもにこちらでやってますので、『プチ改造論』と合わせてお読みください。

 そういえばこちらは読者プレゼントがありました(昨年末に応募は締め切りました)。私の直筆ミニ色紙を10名様にプレゼントという地味な企画だったので、こんなもの欲しがる人なんていないんじゃないの、と心配してましたら、10通ちょっと応募があったそうです。ということで、応募してくださったかたには、かなりの高確率で賞品が届くはずです。発送は発表をもって……あれ、ちがうな、逆か。発表は発送をもって代えさせていただきます。10枚全部ちがう言葉が書いてあるので、なにが届くか、お楽しみに。

 さて、この春の先取り情報としましては、月刊誌で連載が始まります。これがまた意外な媒体で、意外だからこそ興味を惹かれてお引き受けしました。詳細は後日。

 それと、『反社会学の不埒な研究報告』が文庫になります。『続・反社会学講座』と書名を変えまして、4月発売を予定しています。こちらも詳細は後日。


『日本列島プチ改造論』が単行本になっていよいよ発売 (2009.1.13更新)

 こんにちは。最近、一日歩き回るときはアミノ酸を飲むようにしているパオロ・マッツァリーノです。疲れにくい気がするんですけど、気のせい? プラシボっちゃってる?

 でもこちらは気のせいでも夢でもなく、ホントに出ます。昨年より予告していた、『日本列島プチ改造論』の単行本ですが、いよいよ1月22日発売です!

 当初は、暦の上では大寒の20日を予定してたのですが、寒さで手がかじかんじゃったせいで(ウソ)ちょっと遅れまして、22日となった模様。おまちがえなく。

 大寒だろうが百年に一度の不況だろうが、この本を読めば心も体もホット、ホット! 今日もラテンの血が騒ぐ。

 イラストはネット連載時と同じく岡林みかんさん。すね毛の描写にこだわって書き直しまでしてくれたというナイスなイラストが追加されました。

 政治からシモまで幅広い切り口の100本のコラムが、日本をちょっとだけおもしろくしてしまいます。ちょっと、ですよ、ちょっと。マクロよりミクロ、ジャンボよりプチが大切。身の回りをちょっとおもしろくできたらいいじゃない。家庭を職場を教室を、ちょっとおもしろくできる人って素晴らしい。

 これだけ具が詰まって、お値段は税込み1500円。

 ごひいきお引き立てのほど、よろしくお願いいたします。


最近の仕事と新刊予告と2008年のよかったもの (2008.12.16)

 こんにちは。中村勘太郎さんと二代目林家木久蔵さんの区別がつかなくて困っている、パオロ・マッツァリーノです。なにに困るのかと問われてもお答えしかねます。

 まずは、『コドモダマシ』を取りあげてくださった各新聞・雑誌のみなさん(週刊プレイボーイ、毎日新聞、北日本新聞など地方紙各紙)、大々的にプッシュしてくださった書店員のみなさん(リブロ吉祥寺店、紀伊國屋新宿店、ジュンク堂新宿店、三省堂書店神田本店、八重洲ブックセンター、などなど)にお礼を申し上げます。ありがとうございました。取りあげないマスコミのかたがたは、きっと目か頭のどちらかがお悪いのでしょう。一日も早いご回復をお祈り申し上げます。

 なんだかんだで今年は『コドモダマシ』に明け暮れた1年でした。つねに、これまでとは違ったものにチャレンジする姿勢でやってきて、今回はぐっと一般読者層を意識して書きました。そうやって新たなことにチャレンジすると、これまで縁のなかった方面からお座敷がかかったりするんですね。そういう依頼がいくつかありまして、来年はまた違った挑戦をすることになりそうです。

 とりあえず、12月18日発売の『プレジデントファミリー』2月号。読者から寄せられた教育費のお悩みに教育のプロが答えるという企画に、私が参加するという暴挙に出ております。

 え〜? だってプレジデントファミリーの読者といったら、一部上場企業サラリーマンとか開業医とか弁護士とか、ヤンエグ(古いな)みたいなお金持ちばっかりなんでしょ。こどもの教育費くらい、湯水のごとくどっぷんどっぷん使えばいいじゃん、贅沢な悩みいいやがって――とか思ったんです、依頼を受けたときには。

 でも編集者に話を聞くと、いろいろと事情があるようで、なるほどなるほど。みたいないきさつで、おそらく回答者中もっとも年収の低いアラフォー独身の私が、上から目線で勝ち組ペアレンツにアドバイスをするという神をも恐れぬ所業、興味がありましたら、ご一読を。

 そして大事なお知らせ。当サイトですら月イチ程度しか更新しない寡作の私がなんと毎週2年間も連載していた『日本列島プチ改造論』。単行本になりまして、いよいよ来年(2009年)1月下旬発売予定です。大和書房からの発売です。1本1本はプチでも、100回分まとめてゲラで読むと、けっこうなボリュームですなあ。コツコツ積み重ねることの大切さがわかりました(って、いまさら? 40歳でやっと気づいたの?)。というわけでこちらの単行本も、ひとつよろしく。

2008年のよかったもの
(私が2008年に見た聞いた買ったというだけなので、08年に発売されたものとはかぎりません。)

天満天神繁昌亭(大阪・寄席)
 『プチ改造論』の最終回でも書いたので詳しくは書きませんが、上方落語がこんなおもしろいものだとは知りませんでした。大阪に行く楽しみがひとつ増えました。

渋谷・小肥羊のランチ(中華料理)
 月に一度ほど渋谷に行くのですが、お昼はたいていこのお店と決めてます。夜は火鍋専門ですが、昼は中華料理の定食をやってます。週替わり(たぶん)なので行くたびにメニューが違うのですが、だいたいなに食ってもウマいですね。普通、中華定食のスープというと、おざなりな卵スープと相場が決まってるのに、ここのは具に冬瓜みたいのが入ってたりとか、つけ合わせにも工夫があって満足度高し。

『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(日本映画)
 痛い痛い痛い。姉ちゃんも妹も兄貴も嫁も、一家全員、痛い人。こんなんアリか、という設定と、予断を許さないストーリー展開。こんなブラックコメディーの傑作が日本で作られたことを誇りに思えよニッポン人。なかでも強烈なのが嫁役の永作博美。痛かわいい、けどやっぱりコワい。永作さん主演なら、『親切なクムジャさん』日本版リメイクを作れるんじゃなかろか?

『ヒーローズ』(テレビドラマ・アメリカ)
 洋ものドラマとは、なんだか相性が悪いなあ。『24』はシーズン1の第1話だけ見てそれっきりだし、『ロスト』では謎を増やすばかりでひとつも解決しない展開に怒りをおぼえました。そんななか、期待度ゼロのひやかしで見た『ヒーローズ』。クライマックスまでまったく飽きさせずに話を収斂させてくのが凄い。久々に次週が待ちきれない連ドラでした。
※日本のドラマでは、壮大なホラ話と日常生活が同居する『鹿男あをによし』と、親・教師・教育委員それぞれの立場をきちんと描いていた『モンスターペアレント』がよかったです。

ダリ ロイヤルタワー(デンマーク製スピーカー)
 いかにも理系の技術者が計算づくでオーディオマニア向けに作りましたみたいな、体温を感じない音のスピーカーが多い昨今、その流れに逆行するかのようなあたたかい音で異例のロングセラーとなっているスピーカー。この先20年使うつもりで買っちゃいました。そう考えれば決して高い買い物ではありません。豪勢な名前のわりに、かなりコンパクト。なのに中低音の響きと広がりがやたらといいもので、狭い六畳間に置いたら、響きを抑えるのに一苦労。そのうちヒマがあれば、ロイヤルタワー導入設定奮闘記をアップしようかなと。気が向けばですけど。


最新刊『コドモダマシ』好評発売中、そして『プチ改造論』のお知らせ(2008.10.24)

せんべいくれないの?

 こんにちは。先日奈良を訪れ、鹿とたわむれた鹿男パオによし、じゃなかったパオロ・マッツァリーノです。『コドモダマシ』は売れるかな? とたずねたら、サンカクを探せといわれました(←幻聴)

 その『コドモダマシ』、もうお読みいただけましたか。おかげさまで4刷りです。より多くの書店に並ぶようになったと思います。新聞雑誌に紹介記事もぽつぽつ載って、地道に評判が広まっています。

 出版文化なんて言葉も耳にしますが、本だって商品なんです。自分ひとりじゃ作れません。私の本のおもしろさに賭けてくれた出版社の編集や営業、そして書店のかたの尽力がなきゃ世に出ないんですから、やっぱりある程度は――少なくとも損を出さない程度には売れてほしいし、そのつもりで書かなきゃプロ失格と肝に銘じてます。もちろん、いつも本を買ってくださる読者のみなさんの期待にも応えなきゃいけないし。

 今作も、形式・内容ともに、ひと味違います。ああだこうだと説明しても、おもしろさはなかなか伝わりにくいことでしょう。読んでいただくのがいちばんです。趣向は変わっても、わかりやすく・おもしろく・奥が深いエンターテインメントであるのは、これまでどおり。まだお買い求めでないかたは、いますぐ書店へ。もしくはネット書店へ。

 校正の段階でゲラを何度も読んだのに、本ができてからまた読み直してしまいました。こんなことは『反社会学講座』以来です。3年以上、ずっと『コドモダマシ』の家族がアタマの片隅にいたわけで、思い入れも深いんですけどね。キャラクターにはとくに実在のモデルとかはいないんですが、なんだか他人、ていうか架空の家族とは思えなくなってきました。最終話を書き終えたときにさびしくなったのなんて、今回が初めてでした。

 書店のかたともお話しさせていただきましたが、本好きのみなさんに好評なのは、やはり各話ごとにつけたブックガイドです。ただ残念なのは、ブックガイドで取りあげた本には絶版になっているものも多いんです。興味を惹かれた本があったら、図書館で探したほうが早いかもしれません。個人的には『どてらい男』の復刊を望みます。角川文庫さん、ぜひご検討を。

 ある編集者には、前より毒が薄まったのでは、といわれましたが、私はそうは思いません。毒はあります。でも、今回はなるべくそれをじかにではなく、ほんわかしたものにくるんで出そうと試みたので、見過ごしてしまったり、あとから効いてきたりするのでは。

 毒をそのままハイと差し出すのでは芸がありません。みんなね、毒舌みたいな笑いが好きだとかいうんです。毒舌や辛口をウリにする書き手も多いんです。けど、たいていは文章・文体に芸も工夫もないひとりよがりにすぎないし、毒舌が自分に向けられたら、やっぱり怒るんですよ。人間って、自分が思ってるよりも、心が狭いものなんです。毒っけのあるものを敬遠しがちな一般のかたにも広く読んでほしいですよ、私は。わかる人だけわかればいい、みたいに開き直るのは負け犬だと思ってますから。

 そしてまた先月に続き、いいわけのコーナー。現代美術鑑賞の回で、ルーブル美術館では写真撮影が自由だとお父さんがいってます。たしかに昔はそうだったのですが、現在は作品によっては規制されてるそうです。どうもここ数年、ヨーロッパの美術館全体に撮影を禁止する傾向が広まっているとは聞いていましたが、ルーブルもそうなったとは。なんでだろ。ダビンチコード見たミーハー客が押しかけたとか?

 最後にもうひとつお知らせを。2年間にわたり大和書房のサイトで毎週連載してきた『日本列島プチ改造論』ですが、第100回をもっていったん終了いたしました。ご愛読いただいたみなさん、ありがとうございます。私もこれだけの長期連載、そして毎週というのは初めてだったので、いい経験になりました。

 終了が唐突だったので、あらま、打ちきり? とか思われたかもしれませんけど、全100回というのは当初からの予定どおりです。来年早々にも本にまとめて発売されるはずですので、おたのしみに。しばらくはべつの単行本の仕事にかかりますが、そちらのめどが付いたら、『リターンズ』として連載再開する……かもよ? ちなみに私は、井上真央さんと誕生日が一緒です。どうでもいいですね、はいはい。


最新刊『コドモダマシ』たぶん発売中のはずです(2008.9.22)

 新刊の『コドモダマシ』ですが、とりあえず発売された――らしいです。まだ私も書店に足を運んで確認してませんけど、春秋社の担当者から書店で平積みになってると連絡がありました。

 漫画家の藤波俊彦さんに描いていただいた濃ゆいイラストの表紙を目印に探してください。毎回いろんな漫画家のかたに私のイメージ画を描いてもらってますが、どなたともお会いしたことはありません。プロフィールだけをお渡しして、想像で描いてもらってます。それにしても、これが私のイメージなのか? ザビエルじゃないの?

 初版部数はあまり多くないもので、大手書店にしか入荷してないかもしれません。ウチの近所の書店には置いてないぞ、という苦情は地方在住のかたから毎度いただくのですが、こればっかりはホント、ごめんなさい。なにしろ現在日本全国に書店が1万6千店くらいあるそうです。最低でもそれだけ刷らないと全国に行き渡らないってことですが、初版で1万部刷るのって、かなりの人気作家だけですよ。ワタクシメなど、とてもそのレベルには及びません。

 でもおかげさまで、すでに増刷が決定しております! 全国の書店、ネット書店、大学生協書籍部などで見かけたら、お買い求めいただけるとさいわいです。よろしくごひいきのほど、お願いいたします。

 私は1作ごとに趣向を凝らして作風を変え、これまでにないものを書くことを目指してます。でも類書がないってのは、じつは販売上はマイナスの要素でして、「これジャンルなに? どの売り場に置きゃいいんだよ、このヘンテコな本は!」てなことになるわけです。図書館だと私の本は日本論、日本人論に分類されてるようですが、書店ではどの棚なんでしょうか。今回は教育というのがキーワードに入ってますが、純粋な教育書ではないですし、やはり人文社会のコーナーですか。すいません、ヘンな本ばかり書いて。

 『コドモダマシ』は、お父さんが小学生のお子さんの質問に、ときにヘリクツで、ときにマジメに、ときにはぐらかして答えていき、そこに天の声のつっこみが入る形式の、ほんわかブラックな40話。

 ブラックな味つけ、さらに皮肉や諷刺といった表現を私は『反社会学講座』のころからずっと使ってますけど、いまだにお叱りのメールをもらいますからね。なかなかいませんよ、アラフォーになってもなお叱られてる人ってのも。でもまあ、笑う人と怒る人が両方いれば、皮肉や諷刺が効いてる証拠です。みんなに喜ばれてしまうようだと癒し系ですから。

 もうひとつの今回のウリが「理論派お父さんのためのブックガイド」です。これまでも私は自分の本に必ず参考文献一覧をつけてきました。フィクションとエッセイ以外の本で参考文献一覧がないのは著者の怠慢ってのが私の持論ですから。

 『コドモダマシ』では各話ごとに、参考にした本もしくは内容に関連するおもしろい本をひとことコメント付きで紹介しています。専門知識のない一般のかたでも読める本ばかりですし、かなりバラエティにとんだチョイスなので、このブックガイドだけでも価値があると自負しております。

 なお、私はだいぶ前に、ネットで自著の評判をわざわざ検索して読むのをやめました。ネット書店の読者レビューも読みません。

 メールで寄せられた御意見には目を通してます。これだけでじゅうぶんだと思ってます。メールでも賛否両論くるんです。ネット上にはそれと同様の内容がその何倍もアップされていると考えれば、これまでの経験上、間違いないと思います。陰ながら応援してくださる人もいるし、陰口叩く人もいるし。ネットも現実も同じです。

 私はネット上の感想を監視してませんし、アマゾンの低評価レビューに削除要請を出すといったプチ言論テロもしませんので、のびのびとご自由にご感想をお書きください。

 どうしても私の元に意見を届けたいというかたは、メールか、本に挟まってる愛読者カードに書いて送ってください。なお、愛読者カードに帯の応募券(はしっこ三角に切り取るヤツね)を貼って出すと、抽選で私の直筆ミニ色紙が当たります。182ページに載ってるものです。当初はこの2枚だけをプレゼントするつもりだったのですが、春秋社の社長さんに、読者プレゼントで2枚ってのはセコすぎるとお叱りを受けましたので、あと8枚書き足して10枚ってことで。全部違う言葉が書いてあります。応募方法は春秋社のサイトで。

 出来上がった本を改めて読み直したら、ひとつだけ気がかりなところがありましたので、いいわけをしておきます。環境問題のところです。これを読んだ読者に、私も反エコ派(懐疑派)のひとりなのかと思われたら、ちょっと不本意なもので。

 私は(一部の過激なものを除けば)いわゆるエコ活動のほとんどは、社会的・経済的に意味があると考えてます。ていうか、原油高騰などの状況を見ても、もうやらざるをえない時期に来てるのは明らかです。エコ活動が社会や経済を衰退させるという反エコ派の主張は、かなり盛大な誤解に基づいてるので納得できません。簡単なところでいえば、スーパーがレジ袋を有料化してボロ儲けしてるなんてのは噴飯ものの主張です。レジ袋のコストを減らしたぶん、商品を値引きしてお客さんに還元してますよ。そうでなきゃ、1円単位の値引き合戦に勝てるわけがありません。

 ただ、『コドモダマシ』を脱稿した今年の春先の時点では、私は科学的な主張ではエコ派も反エコ派も、どっちもどっちだなと思ってたんです。だから本ではそれを反映した主張になってるのです。しかし改めて調べ直してみたところ、どうやら現在では科学者の間でも、反エコ派の主張は次々に反駁され、エコ推進派が主流になっているようです。以上、いいわけでした。


久々の新刊、もうすぐ発売です(2008.8.21)

 遅れてきたルーキー、パオロ・マッツァリーノです。あっ、それはブーマーか。(ブーマー、知ってる?)

 長らくお待たせいたしました。私の久々の新刊ですが、発売は9月に決定いたしましたので、サイトをご覧のみなさんに、いち早くお伝えします。

 タイトルは『コドモダマシ 〜ほろ苦(にが)教育劇場〜』。春秋社より発売されます(文藝春秋じゃないですよ。お問い合わせの際はお間違えなく)。値段や発売日などの詳細は未定です。決まり次第お知らせします。

 追加情報です! お値段は税込み1470円、発売日は9月20日ごろに決定しました。土日や祝日が入るので、実際に書店に並ぶのはちょっと遅れるかもしれません。例によって私のような三文もの書きの本は初版部数があまり多くありません。初版を確実に入手したいかたは、書店でご予約をされるようおすすめします(といってもべつに初版特典とかはないですけど)

 おや、と思った記憶力のいいかたも2、3人はいらっしゃるかもしれませんけど、2005年に雑誌『トーン』に連載したものの、雑誌のリニューアルのためわずか2回で終了したという不運な原稿、そう、それが『コドモダマシ』でした。その連載に先だって、ダイヤモンド社の広報誌『経』にも単発で書いてましたので、発表したのは計3話。あとの37話をちびりちびりと書き下ろしで追加して全40話、ようやく発売に漕ぎつけました。

 5年越しのプロジェクトです。私の新作としては、前作『つっこみ力』以来1年半ぶり、単行本の形態だと『不埒な研究報告』以来ですから、じつに3年ぶりですか。粘り強いですねえ、私は。単に書くのが遅いだけ? まあ、あきらめが悪いってのも芸のうちだと思ってます。20代そこそこで格差社会に絶望したとかいってる人たちは、あきらめが良すぎますよ。ガリガリガリクソンを見習って、親の財産食いつぶす〜くらいの気持ちでもっとしぶとく生きていただきたい。

 そんなことより、肝心の『コドモダマシ』の内容ですが、小学生のお子さんが投げかけてくる、さまざまな社会現象や教育に関する疑問に、お父さんがデータとヘリクツで答えていくというものです。まあ、家庭版反社会学講座とお考えいただければよろしいかと。とはいえ、この私が書くんですから、週刊こどもニュースみたいな当たり障りのない説明で済ますわけがありません。以下、目次だけごらんください。

父と子のための危機管理
父と子のための思いやりの心
父と子のためのサバイバル
父と子のための英語教育
おじいちゃんと留学生のためのニッポン案内
父と子のための存在感
父と子のための離婚危機
父と子ととなりのご主人のための世代論
父と子のための犬と約束
父と子のためのナンバーワン
父と子のための現代美術鑑賞術入門
おじいちゃんたちのキッザニア
父と子のためのお受験
父と子のための東大進学
父と子のための恋とアスパラガス
父と子のための器用・不器用
父と子のための体罰
父と子のための読書より大切なもの
父と子と団塊世代のためのフリーター今昔
おじいちゃんたちの偉人伝
父と子のための将来なりたい職業
父と子のためのお金もうけ
父と子のためのお受験 番外編
父と子のための雑学ブーム
父と子のためのヒーロー
父と子のための自由研究
父と子のためのあいさつ
父と子ととなりのご主人のための一旗揚げる
父と子のための炎
父と子のためのできちゃった婚
父と子のための役に立つこと
父と子のための夢を託す親
おじいちゃんたち、イジメと闘う
父と子のための危険な専門家
父と子のための格差
父と子のためのなぜ学校に行くのか
父と子のための環境問題
父と子のためのタバコと健康
父と子のための旅立ち

 さあ、この数々の難問にお父さんはどう答えるのか。教養も論理も通用しない矛盾だらけの現代社会で、父として息子になにを伝えるのか。父の威厳を保ち尊敬を勝ち得ることができるのか。同居しているちょいワルじいさんや、おとなりの団塊リストラご主人、ホームステイのアメリカ人高校生などの異論・暴論に屈するなお父さん! 私も本書中では天の声として同世代のお父さんを応援するぞ!(とかいって、じつはチャチャ入れるだけ)

 本をお買い上げのかたを対象に、読者プレゼント企画も用意してます。といっても私のファンしか欲しがらないような景品なので、過度な期待は禁物です。あ、そうそう恒例(?)の漫画家による表紙イラストですが、今回は吉田戦車さんに代わり、某漫画家のかたにお願いしました。かなり濃ゆ〜い画風でインパクトのあるものになりましたので、こちらもお楽しみに。

 私にしか書けないもの、私しか書かないものを書くという流儀でやってきた私の新作です。一筋縄でいかない、明るく楽しく毒のある、ほんわかブラックな本に仕上がりました。ごひいきのほど、どうかよろしくお願いいたします。


私は彼に同情しない(2008.7.2)

 こんにちは。パオロ・マッツァリーノです。私は彼にまったく同情できません。例の、秋葉原の通り魔殺人の犯人です。

 あの事件のあと、派遣とか、ワーキングプアなどと呼ばれる人たちの中に、自分もああいうことをしてたかもしれない、みたいな意見を漏らす人がいました。

 そういうみなさんに申し上げます。その同情は、まちがいです。

 あの野郎殺してやる、とか、勝ち組なんかみんな死んでしまえ、みたいなことを心の中で思った経験なら、どなたにもあるでしょう。私にだってあります。本も売れず原稿も書かせてもらえずくすぶってたころ、なんでこんなつまんない本書くヤツが売れるんだ、死んじまえ、とか考えてましたよ……いまだに思うことありますけど。要するに、その程度の心の闇ならだれもが抱えているんです。

 しかし、ほとんどの人は、実際に人殺しを実行することはありません。死ねと思うことと、実際に殺人に手を染めることの間には、気安く飛び越えることのできない高いハードルがあります。思うだけの心の闇と、実際に人殺しをしてしまう者の心の闇は、闇の質が異なります。それを同じ「心の闇」などというあいまいな言葉でひとくくりにはできませんし、殺人犯の心の闇を、普通の人が想像して同情することなど、不可能なんです。

 ですから、自分もああいう事件を起こしたかもしれない、という仮定がそもそもまちがってるのです。あなたは低賃金労働を強いられる境遇に不満かもしれない。将来に希望が持てないかもしれない。世の中間違ってると思うかもしれない。金持ち死ねと思うかもしれない。でも、人殺しなんてしないでしょ。してませんよね。できないんです。それはあなたがまともな人間だからです。

 あなたは、殺人犯に同情するのでなく、自分が通り魔殺人などをせずにがんばって生きてるまともな人間であることを、誇りに思うべきなんです。

 今回の事件を格差社会と関連して論じることにも反対です。それとこれは別問題。仮に同様の通り魔事件が頻発したとして、その程度で大企業の経営者や、巨額の投資マネーを動かして原油や穀物の価格をつり上げてる連中が、「やっぱ格差って、いけないよね。ボクは全財産を恵まれない貧乏人に寄付します」なんていうわけがないんです。そんないい人ばかりなら、とっくの昔に地球上から貧困はなくなってます。格差が開くと人殺しが起きて世の中が不安になるぞ、なんて脅しや警告は、お金持ちの人たちにとってはなんの意味もありません。彼らの行動を変えさせることはできません。暴力犯罪が増えて苦しむのは、結局は貧乏な庶民なんです。

 だいたい、あの犯人が事件後に語っていると報道されてる言葉を信じるなら(報道内容が事実でない可能性もなきにしもあらずなので)、それはすべてあとづけの理屈であり、責任を自分以外の何かのせいにする、単なるいいわけではないですか。

 彼女がいないから自分はダメだった? 世の中には、彼女がいなくても普通に働いて結果を残してる人が何万人、何十万人(もっと?)もいますよ。というか、彼女ができれば昨日までダメ人間だった男が、一夜にしてヒーローになれるんですか? そんなわけがない。もし彼女ができても、彼のダメな人生にはたいした変化は訪れなかったはずです。そんなとき、他者に責任をおしつけてばかりいる彼のような男ならどうするか。「おまえが俺のやる気を引き出さないから、俺はいつまでたってもダメなんだ!」と自分のふがいなさを彼女のせいにする可能性のほうが高いです。あげくにDVにでもなるくらいがオチ。

 そんな男が、自分は格差社会の被害者だ、みたいなことを主張してもなんの説得力もありません。そんなやつがワーキングプアの代表みたいなつもりでいること自体、不愉快です。

 まともに普通にがんばってても生活が苦しいという人たちこそが、同情の対象であるべきだし、そういう人たちだからこそ、社会の歪みを糾弾する資格があるんです。普通の人たちが救われるように政治や経済、社会の仕組みを変えることを考えるべきでしょう。

 だから私は、あの犯人には同情しないのです。


最近の仕事と懐かしい文庫(2008.5.13)

 こんにちは。ザ・たっちと宮崎哲弥さんの見分けがつかないパオロ・マッツァリーノです。

 次の単行本の原稿をゴールデンウイーク中にほぼ書き上げまして、ホッとしているところです。まだ本文以外の作業が残っているので、実際に刊行されるのはもう少し先になりますが、一冊ごとに趣向を変える私ですので、今度のもこれまでとはひと味違った本になります。数奇な運命をたどった原稿を長期にわたってまとめただけに、とても感慨深いものがありますが、っていってもなんのこっちゃわからないと思いますが、とりあえず楽しみにお待ちください。

 さて、いま『蟹工船』が大ヒット中で文庫の増刷が追いつかない状態なんだとか。またずいぶん懐かしいリバイバルですね。私はずいぶん前に読んだつもりなんですけど、内容の記憶がないところを見ると、途中まで読みかじってやめたのかもしれません。『反社会学の不埒な研究報告』に収録した「あなたにもビジネス書が書ける」でも蟹工船の話題を登場させてるんで(時代の先取り?)、読んだんじゃないかなあ。あやふやだな。

 これにかぎらず古典とか名作の類は、学生時代とオトナになってからとでは受ける印象がかなり変わることが多いので、ぜひ再読してみることをおすすめします。というか私はむしろ、古典はオトナになってから読むほうが絶対におもしろいと思ってます。たとえば、漱石の『吾輩は猫である』なんて、中高校生が読んでも絶対つまんないはずです。少なくとも古典落語をおもしろいと思えるくらいの歳にならないと、あのおもしろさは理解不能でしょう。

 『蟹工船』がお気に召したというかたに、私からぜひおすすめしたい本があります。『セールスマンの死』(ハヤカワ演劇文庫)です。アーサー・ミラーの有名な戯曲で、それこそ日本でも何百回と上演されてるのでしょうけど、この名作が2年ぐらい前にようやく文庫化されたんです。単行本もしばらく前から絶版に近い状態だったというのに、遅い。遅すぎる。

 1949年、戦後まもなくに書かれた戯曲です。それなのにまったく古くない。まるで現代の状況を予測していたのかと驚かされます。当時は主人公のセールスマンの悲哀が主眼だったのでしょうが、いま若いみなさんが読めば、主人公の息子ビフが置かれた状況のほうに共感することでしょう。高校でアメフト部の花形だった彼は大学に行けず定職にも就けず、フリーターのような生活を送っています。逆にいえば、50年前、今と同じ社会状況がアメリカですでに出現していたということなんでしょう。
「三十四にもなって、まだ道がみつからんなんて、恥っさらしだ!」
「問題はやる気がないってことだ」「ビフは怠けものなんだ!」
 そう息子に悪罵を投げつける父親もまた、負け組セールスマンとして苦渋の日々を送っているあたりに、どうしようもないやりきれなさをおぼえます。また絶版にならないうちに、ぜひ、読んでみてください。

 これとは全然毛色の違う本ですが、こないだ本屋で『あばれはっちゃく』の文庫を見つけたときもちょっと驚いて即購入しました。30、40代の人にとっては懐かしい響きですねえ。といっても思い出すのはテレビのほうで、原作本はさほど読まれてないのかも。

 こちらも文庫になるのは初めてみたいです。毎月毎月大量の文庫本が発売されるわりには、なんでこの名作がいつまでたっても文庫化されない、と義憤にかられる本好きのかたも多いはずです。

 文庫担当の編集者の選球眼が悪いのでしょうか。それもなきにしもあらずなんですが、他の事情のほうが大きいようです。ひとつには、著者の中には自著の文庫化を承諾しない人もいるようなんですね、なんでだか知らないけど。この場合は、著者が死んでから著作権を継承した遺族がオーケーするのを待つしかない。

 もうひとつは、単行本の出版社が承諾しないケース。あまり知られていないことなんですが、単行本をべつの出版社が文庫化する場合、文庫の出版社は単行本の出版社に印税を払うことになってます。これは法律的に決まってることじゃなく、商習慣として日本の出版業界で行われていることなんです。

 ところがそれでも単行本の出版社が文庫化を拒否することがあります。こっちが発掘してカネかけて出した本を、文庫屋が横からさらうようなマネしやがって、という理屈にも一理ありますが、著者としてはいい迷惑です。多くの著者にとっては文庫化の印税に生活がかかっているのに、出版社がジャマするんですから。だったら、おまえら単行本もっと売れよ! といいたくもなりますわな。法律的には文庫化の権利は著者側にあるので、出版社に拒否する権利はありませんが、かなり有名なライターのかたでさえ、もめごとを嫌って、文庫化を断念したという話を聞きます。

 この出版社のわがままのせいで文庫化されていない名作って、じつはかなり多いのではないかと私はにらんでいます。少なくとも、品切れ状態になった単行本は、べつの出版社が文庫化を申し出てもじゃましないでほしいものです。


●最近の仕事とモーツァルトじゃ癒されない私 (2008.3.27)

 こんにちは。カラオケではもっぱらテレサ・テンの「つぐない」を歌うパオロ・マッツァリーノです。

 角川書店のPR誌『本の旅人』4月号にコラムを書きました。「私のこだわり」というテーマで短いものが3本載ってます。とびとびのページに掲載されてますので、お読み逃しのないよう。さて、私がこだわる3つのものとは、いったい……?

 最近あまりこのサイトのコラムを更新してないのですが、仕事をしてないわけではありません。ブログなどというしちめんどくさいものを始める気はありませんけど、毎週きっちり「日本列島プチ改造論」のほうは更新してますから、そちらをお読みいただければ、日頃私がどんなことを考えているか多少はおわかりになるかと。

 他にも単発の仕事などをちらほら受けたりもしてます。こないだは某雑誌のアンケートに無償で答えまして、発売された雑誌を本屋で立ち読みしたら豆粒みたいな活字でコメントが載っててしかも誤植で意味不明の文章にされてて不愉快な思いをしたりとか、まあ、いろいろあります。

 一部書店のかたにはずいぶん前から予告しちゃってる私の次の単行本ですが、あとひと踏ん張りです。山登りと同じで、頂上が見えてからが一番苦しくなります。山登りはしたことありませんけど。

 その他にも、企画だけはいくつも進行してますので、おいおいカタチになっていくはずです。気長にご期待ください。

 さて、前回クラシックとオーディオの話をしましたが、その後、優秀録音盤と評判のものを中心にクラシックCDを買い集めて聴いてみました。ジャズファンの私にとって、ひさびさに集中して聴いたクラシックはなかなか耳に新鮮でした。

 ひとつわかったのは、私はモーツァルトの音楽を聴いても癒されない、ってことですね。モーツァルトで癒されるだの病気がなおるだの乳がよくでるだのと、ちまたの評判は上々ですが、あんなひらひらした浮わっついたメロディーで癒されるのかなあ? あの時代の音楽はそういうものだといわれればそれまでですが、癒されるというより、単にBGMとしてじゃまにならない音楽というだけなのでは。

 私にとって、モーツァルトの音楽はウエストコーストジャズですね。ウエストコーストジャズってのは、1950年代にアメリカの西海岸を中心に流行したジャズの流派です。軽く明るく、口当たりのいいスナック菓子みたいなので、私もジャズを聴き始めたころはよく聴いたものです。でも調子に乗って聴き続けると、あるとき突然、飽きが来るんですね。もう一生聴かなくてもいいや、と。モーツァルトにも似たような軽さを感じます。もちろん、ウエストコーストジャズを何十年も聴き続けてる愛好家もいますから、モーツァルトばかりを聴く人がいてもおかしくはありません。

 モーツァルトのピアノ協奏曲第20番をジャック・ルーシェというピアニストがジャズにアレンジしたバージョンがあるんです。ルーシェは正直あまり好きではないのですが、この盤は気に入ってます。ジャズなので当然のごとくベースとドラムが加わって、ストリングスよりデカいツラしてます。ことに第3楽章はクラブジャズファンにもウケそうなアレンジなんですけど、これ聴いたクラシックファンのかたがどういう感想を持つのか興味あります。楽聖への冒とくですかね?


●最近の仕事と突然のクラシック熱 (2008.2.2)

 こんにちは。ジョニー・デップより来日回数の多いパオロ・マッツァリーノです。
 昨年末からサイトを更新しなかったので、ずいぶん前の話になってしまいましたが、『フォンテ』という新聞――以前は『不登校新聞』という名前だったそうです――の1月1日号に私のインタビュー記事が載りました。道徳とか労働観とか、いつもながらのそんなネタで。

 さて、話はがらりと変わりまして、これまたずいぶん前ですが、正月に『のだめ』のドラマを見たんです。そしたら、ブラームスの交響曲第1番が気に入って、CDが欲しくなりました。

 普段聴く音楽の95%がジャズというこの私に、たまにはクラシックを聴いてみようか、と思わせるくらいですから、『のだめ』が日本のクラシック普及に与えている影響力ったらもう、計り知れないものがあることでしょう。

 とはいえ、クラシックの知識がほとんどない私、どのCDがいいのかわかりません。ガイド本などをいろいろ調べた結果、ミュンシュ指揮・パリ管弦楽団のが名盤とのことで、さっそく購入。家に帰って聴きました。爆笑です。
 ティンパニが最前列にいる。

 これはひとえに、ウチのオーディオのせいなんです。ボーズの501Xというスピーカーを長年愛用してまして、こいつは低音をぐいぐい押し出す感じで鳴るんです。ベースやドラムを楽しむジャズにはうってつけなので、年代物だけど、なかなか手放せません。でもクラシックだと、ちょっとバランス悪いのは否めません。繊細な音を好むオーディオオタクは、ボーズのスピーカーのそういう傾向をけなしたり、オーディオ入門者にボーズは買うなと独善的なアドバイスをしてますけど、音の好みも聴く音楽も人それぞれなんだから、よけいなお世話です。

 しかし聴いてるうちに、いくらボーズの再生音とはいえ、音がごしゃっと固まってるように思えてきました。ミュンシュ盤は1968年の録音ですからね。これはもしやCDの録音状態がいまいちなのでは?

 もっと新しい録音のものだと、93年録音のバレンボイム指揮のがいいらしい。再度CD屋へ。ジャケの写真がなんかゲイっぽいたたずまい(べつにゲイの人に対して偏見はありません)。こちらを聴いてみると、あっ、ティンパニがちゃんと奥で鳴ってる。全体的な音の粒立ち・広がりもいい(ボーズで聴いてもわかるくらいに!)。ただ、演奏があっさりしすぎなような? ミュンシュ盤のほうが苦悩に満ちてて聴きごたえあるような? まあ、これも好みの問題でしょうけど。

 今回私が学んだのは、クラシックのCDは録音がよくないとつまらないってことですね。そこで一枚、おすすめのCDを。『カンターテ・ドミノ』(輸入盤のみ)。いわゆる讃美歌のコーラスですが、その昔、オーディオ評論家の長岡鉄男が優秀録音盤と絶賛してただけのことはあります。スピーカーで鳴らすと部屋が教会になります。仏教徒でも心洗われます。最後の「ホワイトクリスマス」だけは伴奏のオルガンが中途半端にスイングしてて、おちゃめ。

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