御意見無用3 〜2004年7月〜
書籍版『反社会学講座』発売記念・ご愛顧感謝企画
パオロ・マッツァリーノ 自著を語る


――みなさん、ごきげんよう。インタビュアーの安城子子子(あんじょうシネコ)です。IQ300です。この名前のおかげで通常の3倍、頭がよくなりました。名前を付けてくれた両親に感謝します第15回参照。書籍版は196ページ)
「IQってのは通常、200以上になることはありえないんだけど」
――いいんです。お気になさらないで。頭がいいのは否定しがたい事実なんですから。それに、わたくしの場合、天は二物を与えた、ということになりますかしら。
「もうひとつのブツは、なんだろう?」
――ご冗談を。さて、マッツァリーノさん。多くの常識人を激怒させてきたいわく付きのサイト『スタンダード反社会学講座』が今回、本になって発売されたそうですね。
「ええ。おかげさまで、人文書としては予想以上の売れ行きのようです……いや、人文書? お笑い本? いままでにないタイプの本なので、書店の人もどこに置いたらいいのかとまどうかもしれません。出版社はずいぶんマジメな社会派のコピーで売り出しましたけど、私としては、もうちょっとおもしろ本としての側面を強調してほしかったんですが」
――ネット公開分と書籍版の違いは、どの辺にあるのでしょうか。
「ネットで公開している初期の回は、2001年に書いたものです。当然データなども古くなっていますし、その後判明した事実などもけっこうあるので加筆しました。その他、社会情勢の変化で内容が現実にそぐわなくなっていた個所もありましたので、そういったところに手を入れました。あと、ネット未公開の新作も2回分追加しました」
――でも、新作をもっと追加してほしかったとの声も聞かれるようですが。
「その辺は、本の値段と分量のせめぎ合いです。私は書籍化が決定したときから、本の値段は1500円にしようと決めていたのです」
――それはまた、なぜですか。
「自分が迷わず買える本の値段の上限が、1500円だからです。それ以上の値段だと、心の中で助走をしないと本を手に取れないんです。だから、最初から本の値段を1500円と決めてしまい、その枠内でギリギリ一杯に内容を詰め込もうと考えたのです。ところが、未公開分も含めると予想以上に分量が増えてしまいまして、一時は出版社から、1500円では出せないといわれました。そこをなんとか無理いっておさめたわけでして、この値段でこれ以上分量は増やせません。でも結果的には、じゅうぶんお買い得な本になったと自負しておりますが……」
――うん……そうそう。その件は課長と相談して決めてくれる? ……あっ、マッツァリーノさん、どうぞお話を続けてください。こっちの話ですから、お気になさらずに。
「気になるよ。インタビュー中にケータイで別の話をされたら」
――だいじょうぶです。わたくしは頭がいいので、同時に何人もの人の話を聞いて理解できますから。聖徳太子と一緒です。
「ああ、なるほど、聖徳太子も名前に「子」がつくから頭がよかったんだ……」
――違うと思いますよ。
「わかってますよ! そっちがふったから、のったんでしょうが」
――ネット公開分とそれほど代わり映えしないのでは、という意見もありますが。
「カタチとしては、ネットでの連載を本にまとめた、ということになっていますが、じつは書籍化の話は1年半以上前、第8回発表後にすでに決まっていたんですよ。ですから第9回以降は、本にするつもりで書いておりまして、最初から完成度の高いものを公開していたのです。あ、この完成度というのは、ネタとしてという意味での完成度です。学問的な完成度ではありません」
――そこにはどういう違いがあるのですか。
「学問的な完成度を高めるということは、論理・内容ともに最大限つっこまれにくくするということです。反社会学講座は、むしろ読者のつっこみを誘っているのです」
――漫才でやってる、あのツッコミですか?
「まさにそれです。いまの日本人にもっとも必要なのは、論理力でも思考力でも読書力でもコメント力でもなく、「つっこみ力」です。マスコミの報道や、エラい先生方の本や御意見を無批判にありがたがるのは危険です。発言者の権威や地位に惑わされず、発言の内容そのものを吟味できる能力こそが重要で、それはメディア・リテラシーという能力の核になるものです。でも、リテラシーだとか、日常会話では決して使わない横文字でいわれても、一般の人にはピンと来ないでしょ。「つっこみ力」っていったほうが、わかりやすいんです。漫才のボケというのは論理的におかしなところ、飛躍した個所です。そこに的をはずさず適切なタイミングでつっこんで盛り上げられるかどうか。それがつっこみ力です」
――批判とか批評ではダメなんですか。
「批判でも相手のウソやごまかしを浮かび上がらせることはできますが、それって基本的にネガティブな行為ですから、ずっとやってると感じ悪いんですよ。本当は批判しているほうが正しくても、一般市民の目には、批判されてる側がいじめられてるように映ってしまいます。で、ヘタすると批判者がワルモノにされてしまいます。でも、相手の意見を批判するだけでなく笑いに変えて盛り上げるつっこみなら、つっこむ側もつっこまれる側も楽しいので、カドが立ちません。日本人は昔からつっこみという素晴らしいコミュニケーション手段を持っているのに、それを活用しないのは、大変もったいない話です」
――なるほど。
「どんなに真面目な顔して書いた学術書でも、必ずどこかに人間くささが残ってます。著者は冷静に客観的に論じてるつもりでいても、なにがしかのバイアスがかかってるわけで、私はむしろそれが当然だと思います。実験で白黒つけられる自然科学の分野でさえ、主観が実験結果をゆがめることがあるのに、もとから証明の困難な社会科学で客観性を気取るなんて、ちゃんちゃらおかしい。社会科学なんて、つっこまれてナンボ、という世界ですよ。ところが真面目な人ほど、つっこまれることはカッコ悪いこと、末代までの家の恥、なんて思ってしまいます。
 つっこまれることを恐れていては、おもしろいものも新しいものも書けません。だから私は、他人の研究につっこみを入れるだけでなく、自分も積極的にボケているのです。データから無理な解釈を引き出したり、おもしろいけど実現が難しいとっぴな提案をしたり。子曰く「つっこみ遠方より来たる、また楽しからずや」。読者のみなさんにはぜひ、つっこみを入れながら、楽しく『反社会学講座』を読んでいただきたいのです。で、その姿勢を保ったまま、他の本や新聞・雑誌を読んでもらう。そうすればほら、メディア・リテラシーがこんなに簡単に実践できてしまう!」
――すいませーん、ナポリタンひとつ。
「あなた、私の話に興味ないでしょう?」
――わたくしって、すぐおなかがすく人なんですよね。頭がいいせいかしら。脳って、人体でもっともエネルギーを消費する器官らしいですし。あ、どうぞお気になさらず、お話を続けてください。マッツァリーノさんもどうですか? イタリア生まれなら、ナポリタンお好きでしょ。
「IQ300なのに、イタリアにナポリタンがないことも知らんのか」
――食べないんですか?
「食べます」
――すいませーん、ナポリタン、もうひとつ。つまり、マッツァリーノさんとしては、批判されるのは本望だと。
「それは全然かまわないんですけど、私の書くものは基本的にネタですからね。笑いのセンスのない人はネタの部分に噛みついて、的はずれな批評をする可能性がありますから、ご注意ください。そういうの、江戸っ子は、ヤボっていいますね。私のヘリクツがすでにヤボなんだから、ヤボにヤボを重ねるようなマネをしないように。
 それから、私が具体的なことがらについて論じてるのに、抽象的な理論を振りかざして、「あなたは○○社会学の××理論における△△をわかっていないのだ」みたいなわかりにくい批判をする人も困ります。
 あと、何度もいってるように、私はウソのデータは出してません。こないだネットを検索してたら、第14回の「アメリカの大学生の38%は学費ローンをまったく利用していない」というくだりに関して、出典がない、と指摘している人がいました。いくらなんでも、そんな具体的な数字を捏造するわけがないです。ちゃんとアメリカ商務省センサス局のレポートだ、と出典を示してありますよ。
 ただ、話をおもしろくするために、都合のいいおもしろデータだけを紹介していることは、しばしばあります。都合のいいデータだけ並べるな、と批判されることもありますが、それやめちゃったら、反社会学講座の存在価値がなくなっちゃうのでねえ。そればっかりは、いくら批判されても改める気はありません、とお断りしておきます。
 私がおそれているのは、批判されることよりも、読者が信者になってしまうことです。つっこみ力がなくなった人間の行き着く先が、狂信者です。だから、私のことは、おもしろいコトいう、おもしろいオッサンだな、くらいに思ってくれれば光栄です」
――この本に書いてあることは、すでに他の社会学者などが書いている、という意見もありましたが、それについてはどうでしょうか。
「100パーセント独自の理論だけが書いてある本なんてありませんよ。理系の人がよく使う表現で、巨人の肩に乗って遠くを見る、というのがありますが、先人の偉大な研究成果に乗っかって、自分なりの成果を付け足せればいいんです。逆にいうと、他人の研究成果や資料・データを見もせずに、自分の経験だけに基づいた意見を主張する人は、地面にへばりついたまま遠くを見てるつもりになっている、あわれなガマガエルなんです。
 それより問題なのは、すでに他の学者が書いてるといいますが、じゃあ、そういった事実を世間の誰ひとりとして知らないのはどういうわけだ、という点です。さっきもいいましたけど、学問的な完成度をあげて同業者の批判をかわそうとすると、どうしても専門用語や硬い表現の羅列になってしまいます。それだと一般の人にはまったく伝わりません。せっかくのおもしろい理論や研究も、いちげんさんお断りの高級料亭だけで出されているようなものです。高級料亭のお座敷で、俺の理論は社会を救えるのに、なぜみんなわかってくれないのだ、と愚痴をこぼすのは、むなしいだけです。
 反社会学講座は町の洋食屋です。一般の人たちが気軽に立ち寄れる店で、おもしろい研究成果を手頃な値段で提供しているのです。私はいつも、高校生でも理解できるような文章を書くよう、心掛けています。難しい用語やいいまわしは極力避けます。というか、もともと、難しい表現を駆使できるほどの文章力もないし」
――社会学そのものに対しての御意見をお聞かせください。
「興味ないです」
――ないんですか?
「私が興味を持っているのは、社会そのものであり、さらにいえば、社会を構成する人間です。ですから、人間が見えてこないような抽象的な社会学の理論には、まるで興味がありません。世の中にはいい人もいる反面、想像を絶する数のクソ野郎もいます。偉人もいればダメな人もいます。善悪・清濁が入り交じっているのが社会です。そんな社会のいろいろな面を明らかにした上で、全部ひっくるめて、ああ、社会って、人間って、案外おもしろいじゃないか、と思ってほしいのです。
 言語学者のチョムスキーさんは、社会学なんてのは誰にでもできる博物学みたいなものだ、とこきおろしていますが、私はむしろ、そこがおもしろいんじゃん、といいたいわけで、反社会学は博物学的なおもしろさを追求しているのです。
 社会学者のみなさんが私の不埒(ふらち)な態度をどう思われるかはわかりません。反発をおぼえる人もいることでしょう。ただ、伝わってくるところでは、本物の社会学者のみなさんは、反社会学講座をニヤニヤしながら愉しんでおられるようです。むしろ、社会学を楽しいものでなく、カッコイイものだとカン違いしている生半可な学者崩れから反感を買うことが多いようですね。
 それと、これも繰り言になりますが、「この社会は病んでいる」「社会が悪くなったのはあいつらのせいだ」などと、社会に絶望と憎しみを振りまくしか能のないスーペーな学者や評論家は、社会の迷惑だから早いとこ転職していただきたい。あ、でも、社会を憎んでる人たちは、学者をやめたらテロリストくらいしか仕事がないから、やめさせるとかえって危険かな。やっぱりやめなくていいです」
――マッツァリーノさんは誰なんだ、という詮索が行われているようですが、それに関してなにかコメントは。
「一部の社会学者のかたが、マッツァリーノはお前じゃないのか、なんて周囲の人から疑われて迷惑しているという話も耳にしますので、変な詮索はやめてくださいね。本の帯に推薦コメントを書いてくれた関西大学の辻助教授とも、私はまったく面識がありません。見ず知らずの他人の本にコメントや書評を寄せてくださったことに、この場でお礼を申し上げます。
 ところで、いままでナイショにしていたのですが、パオロ・マッツァリーノは、オーディションで選ばれた複数の人間からなるユニット名なんですよ」
――えっ、本当ですか?
「ウソです」
――ウソかい! あら、わたくしにもいつの間にか、つっこみ力が。
「それは気のせい」
――ナポリタン、まだかしら。

(東京都下の喫茶店カフェ・ソンブレロにて収録)


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