最近の○○・バックナンバー 1(2005年以前)

●最近の仕事と関西自腹営業ツアーとやっぱりリフレ派は怖い(2005.11.28)

 日経ビズテックの最新号が発売中です。この号で私の連載は終了します。お読みいただいたみなさん、ありがとうございました……たぶん立ち読みだろうけど(高いよね)。担当編集者の話ですと、読者からの反応は賛否両論激しくわかれていたとのこと。

 その連載も収録して、なおかつビズテック一冊分よりお安くお得な『反社会学の不埒な研究報告』ですが、おかげさまで、予想以上に売れているようです。純然たる続編ではなく、前作とはかなりスタイルを変えていますので、評価されるにしても時間がかかるだろうとは覚悟していました。初版分だけでも売り切れば上等、くらいに考えていましたが、実際のところ、初版分はどこに消えたんだろう? というくらいの勢いでした。自慢? いえいえ、そりゃあ100万部刷ってまだ足りないっていうなら自慢ですけど、私の場合は初版部数がわずかだったってだけのことです。さっそく重版されましたので、徐々に出回るはずです。『反社会学講座』が売れたといっても、あの印税だって、BMW買ったり料亭に通ったりできるほどではなかったんですから。やっぱり、映画化・ドラマ化・アニメ化・パチンコ化されないとお金持ちにはなれないみたいです(オファーは、引き続きお待ちしております)

 再版分は誤植などをちょこっと訂正してあります。それに関連して、ひとこと。さっそくアマゾンにレビューを書いてくださったかたがいらっしゃいまして、それは大変うれしいことです。ただ、そのかたは私の本に間違いがあると指摘して評価を下げているのですが、そのご指摘のほうが間違っているんですね。その辺も含めた初版の訂正個所などをこちらにまとめておきます。

 今回も前回同様、発売翌週に、大阪・京都の書店や大学生協をまわる関西自腹営業ツアーを敢行いたしました。現在、出版社はほとんどが東京にありまして、営業のかたが関西の書店にまで足を運ぶことはあまりありません。それならば、と私は自腹で関西まで出向いて、書店にあいさつまわりをしたのです。

 私は客商売の経験もあるので、人に頭を下げることが苦になりません。それに、商品として本を出した以上は、ある程度は売れないと出版社にも書店にも申し訳が立たない、みたいな商人的発想もあります。むしろ、自分の本を売ろうという努力もせずに、「いまの時代は本が売れないからねえ」なんていいわけで自分を慰めている著者が多いことのほうが、私には信じられません。

 たしかに、売れないんです。人文書がどれだけ売れないか、みなさんご存じですか。いろいろな出版社のかたのお話をまとめると、たとえば社会学関連の本。おそらくいま日本でもっとも名の売れた社会学者である宮台さんの本ですら、1万部を突破することは、まずないというではありませんか。宮台さんの本でそのありさまなんですから、その他大勢――といっては失礼ですが、要は世間的に無名な学者の本など、黙ってて売れるわけがない。だからこそ、売る努力をしてみる価値はあるのです。学者先生たちも研究室でベストセラーの夢ばかり見てないで、営業活動をして少しは世間の風に当たってみたらいかがですか。

 日頃ネットをさほど利用していない私なのですが(調べものは基本的に図書館でします)、さすがに本の発売直後は気になって、検索なんかをしてみますわな。……ラストのコントの評判がよろしくないようで。世の読書人は、おもに小説しか読まない人と、小説はほとんど読まない人の2種類に分かれる傾向があるように思います。私はどちらも読むもので、今回の本でフィクションとノンフィクションの垣根を取っ払ってしまおうと狙ったのですが、なかなか難しいようです。

 今回批判されるとしたら、「経済学は無慈悲な……」か「長屋武士道」だろうなと予想していました。近頃世間では、アキバ系オタクが話題ですが、じつは経済学オタクと歴史オタクのほうが数も多いし、俺様度が高くてキモいのです。やつらはチェックのシャツを着ていないので、外見ではオタクとわからないだけです。

 そういう連中が重箱の隅突きをしてくるかなと思ったら、意外にもまっ先に噛みついてきたのがリフレ派学者でした。「統計奇譚・後編」でたった7行ばかし、リフレ派に対する牽制球を投げてみたのですが、そこにピラニアのように食らいついてくるだけでなく、まるで私の本全体がインチキであるかのような風評を流しているご様子。困った連中です。

 いまやリフレはインテリの間で、便利な踏み絵となっています(逆踏み絵?)。「リフレって、いいよね〜」と口にするだけで進歩的知識人の仲間入りができるのですから、こんなにラクなことはない。逆に、ちょっとでもリフレの効果に疑問を投げかける者は、度しがたい頑迷な「世間知」とレッテルを貼られ、徹底排除されるのです。

 私は以前から、学者のいうことでも鵜呑みにしてはいけない、と繰り返し申し上げてきました。自分の目で見て、読んで、自分の耳で聞き、自分の頭で考えなさいと申し上げてきました。でもなかなかみなさん実践してくれない。

 私は、GDPが上がった下がったと騒ぐのを耳にして不思議に思い、GDPってなんだ、というところから調べ直していきました。その結果、経済学の正しさなんてのは、しょせん経済学者が決めたお約束にすぎないのだとわかりました。それをまとめたのが、今回の続編に収録した「経済学は無慈悲なお約束の女王」です。リフレもじつは同じです。数ある学説のひとつとして「正しい」というだけなのです。リフレ派学者の本を読めば読むほど、私はその実効性には疑いを抱くようになりました。

 デフレ不況の街角で寒さに震え、飢えに苦しむマッチ売りの少女のもとに、経済学紳士がやってきました。
「政府がリフレ理論を採用すれば、物価が上がって消費が増えて、きみの所得も増えるのだよ」
「なんて素敵なの! ねぇ、おじさま、いますぐリフレになったとして、わたしの所得が増えるのはいつごろなの?」
「うーん、5年後くらいかな……あつっ! なにをする」
「眉毛燃やすぞ、じじい」

 リフレ本の内容を現実に則して世間向けに翻訳すれば、こんなもんですよ。経済学者が支持するならともかく、他の分野の学者や評論家がなぜああまでリフレに入れ込むのか、理解できません。比較的教育程度の高い者たちが一面的な真理に傾倒し、世間をバカにしているのですから、もはやリフレは学問でなく、新興宗教です。ああ怖い。

 私は「リフレは悪い」とはいってません。「リフレは怖い」といいました。いくら理論的に素晴らしくとも、実行した場合にその効果を帳消しにする要因がいくらもあるから怖いのです。そのひとつが「統計奇譚・後編」であげた、日本特有の土地・住宅問題です。そのへんの改革を先にきちんとやって、土地の値段がいまの5分の1くらいになり、家屋そのものにコストをかけられるようになってから、どうぞインフレにしてくださいな、そうしないと結局世間の庶民は永久に安普請の欠陥住宅しか買えないでしょ、という話です。

 小田中直樹さんの解釈では、私は前作では専門知で世間知を斬っていたから良くて、今回は世間知で専門知を批判しているのでダメなのだそうです。ちょっと待ってくださいよ。私はこれまでも、学者の味方などしたおぼえはありません。前作『反社会学講座』のときからずっとそう。世間の誤った思いこみを突きつつも、返す刀で、世間知らずのへっぴり学者の勝手な理屈も斬っていたのです。だから「反」社会学なんじゃないですか。一般の読者のみなさんは、偉そうなことをいう学者や評論家が叩かれているのを見て快哉を叫んだのに、学者のみなさんは、ご自分が斬られていたことにすらお気づきにならなかったようです。

 どんなに世間が悪くとも、私は世間の味方です。世間の間違いを、世間の人が読めるような文章で、まさにその世間の人に伝える努力をしなければなんの意味もありません。リフレ派学者は、世間の人に自分たちの主張を納得させられるだけの言語能力・コミュニケーション能力もないくせに、世間が俺の意見を受け容れないのは世間がバカだからだ、の一点張り。これで世間の支持を得ようというのがずうずうしい。

 どうやら今度は、世間知らずの学者・評論家をネタにしなければならないようです。近日中にサイトで公開するか、それとも次の本に載せるか、迷っています。とりあえずは、次の書き下ろしに向けて、すでに準備が始まっていることだけはご報告しておきます。来年は、あわよくば、2冊書き下ろし本が出せるかもしれません。世間のみなさんは、ご期待ください。学者のみなさんは、私の悪口でもいっててください。


●最近の仕事といよいよ発売『反社会学の不埒な研究報告』(2005.11.1)

 ちょいワルおやじのパオロ・マッツァリーノです。3回に1回は、おしっこしたあと手を洗いません。

 日本看護協会の機関誌『看護』11月号に短いコラムを書きました。私のようなふざけた者がそんなお堅い媒体に書いていいのかと危ぶみ、ボツも覚悟しましたが、なんとか通ったようです。あまり一般の書店では見かけない専門誌ですが、もし手に取る機会がありましたら、ご覧ください。

 さて、発売が当初の予告より一月遅れてしまいましたが、満を持して『反社会学の不埒な研究報告』(二見書房)の発売です。早ければ11月2日、遅くとも11月4日ごろには、書店の店頭に並んでいるはずです。例によって、初版はそれほど刷りませんので、確実にお求めになりたいかたは、大手の書店やネット書店で探してみてください。お値段据え置き、税込み1500円。
(業務連絡:私と仕事をしたことのある編集者のかたには、献本が行くと思いますので、お待ちください。)

 今回の表紙は、地味な白っぽい表紙の本が多い人文書売り場で目立つため、鮮やかなレモンイエローと黒の組み合わせにする姑息な手段に出ました。10秒くらいじっと見つめていると、目に残像が焼きつきます。表紙のイラストは、イラストレーターのクーさんに描いていただきました。あくまでも、プロフィールから想像されるパオロ・マッツァリーノのイメージ像です。ブランド王ロイヤルの社長ではありません。

 発売が遅れたことで、版元の二見書房のほうにまで読者のかたから問い合わせがあったとのことで、大変申し訳ありません。そして、期待していただいてありがとうございます。今回は、わかりやすさとおもしろさを失わないよう心がけた上で、単なる続編ではない新たな表現に挑戦しました。前作では学問+お笑いがテーマでしたが、今回は学問×お笑い×ドラマを目標に、内容・文体・長さ・構成などさまざまな面でかなりの冒険を試みました。本は小説しか読まないというかたも、巻末の長編コント(または短編小説)「あなたにもビジネス書が書ける」をぜひご一読ください。今年こそは本屋大賞にノミネートしてもらえるのではないかと、ほのかな野望に燃えています。

 一般人も社会学者もお笑いファンも文学青年(少女)も、人それぞれに愉しめる『反社会学の不埒な研究報告』、ひとつよろしくお願いします。


●最近の仕事と新刊発売日ちょっと延期(2005.9.26)

 あっ、愛・地球博って、「愛知」にかかってたんだ!
 だじゃれに気づくのが遅いパオロ・マッツァリーノです。みなさん、だじゃれとバカにしますけど、前頭葉のある部位が損傷すると、やたらと軽薄な性格になり、だじゃれを連発する症状をおこすことがあるそうです。笑いごとじゃ済まされません。そこで、日頃だじゃれを連発している中年男性に脳の検診をすすめたところ、「ノー・サンキュー」といわれました。

「日経よく読まない人」連載中の『日経ビズテック』、最新号が発売中。今回の私のネタは「五十三歳のハローワーク」。五十三歳で求職中の元やくざが、職業とは何かを問いかける、芸術祭参加作――ウソです。バカバカしいお話です。落語風のひねったオチをつけたのですが、編集部の人からは、オチの意味がわからないといわれました。問題作です。わかりやすくなるよう、ちょっとオチに手を入れましたが、さて読者のみなさんの反応はいかに。

 この記事の参考にしようと、やくざ系雑誌を何冊かまとめ買いして読みました。「保釈保証金立替致します」という広告や、全国の新聞から抜粋した、組員の逮捕情報みたいなディープなネタがあるかと思えば、読者のお便りコーナーや、星占いといった、ごく普通のページもあります。水瓶座のラッキーアイテムはスイーツ。デパ地下の限定メロンパン売り場に並ぶやくざをみかけたら、きっと水瓶座です。

 ところで、もうひとつの連載「コドモダマシ」ですが、掲載誌が音楽専門誌に衣替えするとかで、結局たった2回で連載終了になりました。でも私はまだ書く気でいるので、こちらのほうはまた別のかたちで、いつかお目にかかれるかと思います。

 そして、忘れちゃいけない、単行本情報。ほうぼうで予告しておきながら申し訳ないのですが、ちょっと発売日がずれこみまして10月下旬となりました。現在、校正作業の真っ最中です。『反社会学の不埒な研究報告(仮題)』、発行元は二見書房。前回のお知らせで全体の構成を告知したので、今回は、ネット未公開分のネタのタイトルを発表します。

  「統計奇譚 前編・意識調査の闇」(日経ビズテック掲載分を修正・加筆)
  「統計奇譚 後編・消える住宅の怪」(書き下ろし)
  「くよくよのラーメン」(日経ビズテック掲載分を大幅に修正・加筆)
  「経済学は無慈悲なお約束の女王」(日経ビズテック掲載「実質GDP祭り」を大幅に加筆)
  「尊敬されたい!」(日経ビズテック掲載分を修正・加筆)
  新作落語「長屋武士道」(書き下ろし・落語と反社会学のコラボレーション)
  コント「あなたにもビジネス書が書ける」(書き下ろし・一幕もののコント)

 全体のページ数は『反社会学講座』とほぼ同じなので、値段も同じくらいになる予定です。発売が迫りましたら、再度詳しい情報をお知らせします。


●最近の仕事と参拝と新刊予告(2005.9.1)

 参拝するだのしないだの、なんだか騒がしい夏でした。そういうわけで私も日本国民の一人として、参拝に行ってまいりました。近代的なビル街のど真ん中にたたずむ、場違いとも思える石塀に囲まれた一郭。石段を上がった奥には、そのおどろおどろしい来歴からは似つかわしくない、小ぎれいに手入れされた石碑が立っていました。ほほう、これがこの夏話題になった将門の首塚ですか。中央朝廷の圧政に苦しむ関東の民を救うために戦い破れた男の首が埋まるといわれるこの……え? 参拝の是非って、ここのことじゃないの?

 さて、本来なら連載中の「コドモダマシ」の宣伝をする時期なのですが、掲載誌『トーン』が内容をリニューアルするとかで、発売が9月末に延期されるとのこと。一応私の連載は続くという話だったのですが、その後編集部からの連絡もないので、よくわかりません。いままで書いた分の原稿料はいただいているので、あとのことは気にしませんけど。

 そういうわけで、再度、反社会学の新刊予告をします。発売日は10月初旬の予定。現時点での仮題は『反社会学の不埒な研究報告』、発売元は二見書房です。

 肝心の内容ですが、まずは、すでにサイト発表済みの20〜24回に手を加えたもの。そして、『日経ビズテック』連載中の「日経よく読まない人」を大幅に加筆したもの。これはほとんどのネタが加筆というよりほぼ書き下ろしに近い変わりようですから、雑誌連載をお読みになってくださったかたのほうが、新鮮な驚きをおぼえ、楽しめることでしょう。

 さらに、書き下ろしとして、以前に予告した落語と反社会学の融合ネタ。これけっこう長いです。もう1本長いやつで、短編小説なのか長編コントなのかわからない作品。

 このように、かなりバラエティーに富んだ構成です。『反社会学講座』の枠を越え、アカデミズムとお笑いを融合した新たなエンターテインメントを、さらに追求した作品となっております。

 全体の4分の3がほぼ書き下ろしなので、前作『反社会学講座』を、ほとんどネットで読めるからという理由で購入を見送ったかたは、今度こそ心おきなくお買い求めいただけます。もちろん、前作の読者のみなさんも、引き続きよろしくお願いします。そして書店・大学生協のみなさん、著者本人がアポなしで営業にうかがうこともありますので、その節は、ニセ外人め、などと冷たくあしらわずに、よろしくお願いします。


●最近の仕事と予言と緊急告知(2005.7.26)

 今月の一句。
 変態も 全裸にコートで クールビズ
 でも、彼らの格好は夏には暑そうだし、かといって冬には寒そうだし、なんとも中途半端です。ちなみにこのタイプの変態を英語ではフラッシャーといいます(閃光のごとくパッとはだけて見せるから)。ザ・フラッシャー。アメコミのヒーローみたいです。なにはともあれ、私も以前から応援してきた夏の軽装運動が、ようやく世間の支持を集め出したのは嬉しいかぎりです。環境省のかたも、『反社会学講座』をお読みになったのでしょうか。

 さて、毎度バカバカしい「日経よく読まない人」連載中の『日経ビズテック』(ビズテックがバカバカしいのではありませんから、誤解のないよう)最新号が発売です。

 これまで私は講座や統計漫談と称して、一人語りの文章をつづってきましたが、今回は初めて漫才風の構成にチャレンジしてみました。夏ということで、内容もホラーっぽく、「統計奇譚」。毎回毎回ヘンな趣向を試みて、ビズテック編集部にはご迷惑をおかけしていると同時に、それをやらせていただけることに感謝しております。

 最近はなんだか予言なんてのが流行ってまして、占い師も、なにかをズバリといい当てたかどうかで能力を評価されるようになってしまいました。でも、もともと占いってのは、当たるも八卦(はっけ)、当たらぬも八卦、要するに当たるかどうかは二の次なんです。それを承知の上で、迷ったり悩んだりしている人が決断のヒントをもらう人生相談的なものとして昔から利用してきたわけで、予言者と占い師を混同してはいけません。「なんだいあの占いババア、ただの人生相談みたいなことしかいわねえじゃねえか」と文句をつける人がいますけど、いいんです、それで。占い師はあくまでも人間でいるべきで、予言者を気取り出すと危なくなります。予言や千里眼なんてものをありがたがることのほうが、超自然的なものへの過大な依存心や信仰心を育んでしまうので、かえって危険です。

 テレビのワイドショーでは司会の人が危機管理の専門家とやらに「日本でもテロが起きる可能性はあるのでしょうか」「はい、起きる可能性はあります」。いつのまにかテロ占いまで始まったようです。テロが起きる可能性なんて愚問を問うこと自体、おかしいんですけどね。可能性はゼロにはなり得ないのだから。そんなもん、近所のおばちゃんに聞いたって、可能性はあるといいますよ。また、おばちゃんは後出しじゃんけんならぬ、後出し予言の能力にも秀でています。だれかが優れた業績で有名になり、出身地で取材すると近所のおばちゃんが「あの子は絶対、なんかやってくれる子だと思ってたわ」

 だいたい、テロが起きるなんて予言はズルいでしょう。だって、予言がはずれそうになったら自分でテロを起こせばいいのですから、予言がはずれるわけがありません。それに、専門家が庶民と同じ意見を述べてどうする。むしろ専門家を名乗るなら、日本ではテロは起きないと断言すべきです。世の中を不安に陥れることもテロの狙いなのですから、そのテロの目論見を専門家が煽ってはいけません。「日本でテロ? ないない。平気平気」といっといて、裏でこっそり対策を講じるのが、もっとも有効なテロ対策です。

 さてさて、テロリストよりエロリストと親交を深めたい私ですが、この秋、また本を出します。『反社会学の不埒な研究報告(仮題)』発売元は二見書房。常識を疑えなどと型破りを焚きつけている私自身が、自分の作った型でぬくぬくしているのもおかしいので、単なる続編とは違うものを目指しました。お笑いと学問の融合という基本方針はそのままですが、講座形式にはこだわらず、漫談・漫才・落語・小説・コントなどさまざまな手法を用いて、いままでとはひと味違う反社会学の世界をご提供する予定です。詳細が決まり次第、またお知らせします。


●最近の仕事とやっかいな名前(2005.6.27)

 オルタナティブ教育コント「コドモダマシ」が連載中の『tone』第2号、発売中です。父と子のためのサバイバル、などとスピルバーグ並みのおおげさなテーマを掲げておりますが、私のほうは例によってお笑いとヘリクツです。親子関係に悩むお父さんも、ぜひご一読を。雑誌買うくらい安いもんです。カウンセラーなんてのに相談すると、高額の相談料ぼったくられてケツの毛までむしられますよ。そのくせ連中のアドバイスは、道端で色紙につまらない人生論書いて売ってる兄ちゃんと大差ないんですから。

 さて、早いもので『反社会学講座』が書店に並んでから1年になります。このサイトを始めてからだと4年くらいでしょうか。それでもいまだにぼちぼちと、新たな読者が増えているというのは、本当にありがたいことです。

 新読者のみなさんのために、いくつかお知らせを。
・現在、サイトでの講座の更新は止まっています。
・隔月刊の雑誌2誌に反社会学風味の文章を連載しております。上記の「コドモダマシ」と、『日経ビズテック』誌の「日経よく読まない人」。
・連載中の雑誌が発売されるとそのお知らせを「最近の仕事と○○」と題してサイトに掲載します。これまでのお知らせは最近の仕事・バックナンバーのページにまとめてあります。

 なかには新たに読んで怒りをおぼえるかたもいらっしゃるようで、先日も、そんなに文句ばかりいうのなら、政治家にでもなって社会を変えたらいいじゃないか、みたいな批判をされました。でも私のことが嫌いな人は、仮に私が出馬しても絶対投票してくれないでしょうから、これほど矛盾した批判もありません。いまのところ、私は政治家になるつもりはまったくありませんけど。

 だいたい、選挙に出るにはパオロ・マッツァリーノみたいなややこしい名前は不利なんです。なによりおぼえづらいし、最悪、書き間違えると無効票にされるおそれがあります。だから名前に難しい漢字がある候補者は、登録名をひらがなにするのです。

 みなさんからいただいたメールにも、しばしば間違いが見受けられます。マッツアリーノ、マッツァチーノ、マッツリアーノ、マッツァーリ、マリオ……他のはともかく、マリオだとさすがに無効票になる確率が高いと思われます。

 私自身は多少名前を間違われたくらいで不機嫌になることはありませんので、ご心配なく。みなさんがタイプミスをするのも無理はありません。マッツァリーノってのはローマ字入力だとちょっと出しづらいのです。なにしろ「ツァ」の表記が含まれるのはたいていイタリア関係の言葉で、日本語にはめったに出てこないのですから。ピッツァ、カデンツァ、おとっつぁん、あ、これは日本語か。

 最近、マッツァリーノを上回るやっかいな名前を発見しました。チャン・ツィイー(中国の女優さん)です。「ツィイー」を初見一発でローマ字入力できる人は、かなりのタイピングの達人です。

 ところで私の名前を、イザヤ・ベンダサンみたいなデタラメと思っているかたも少なくないようですが、マッツァリーノという姓はイタリアに本当にあります。夏休みにイタリア旅行に出掛けたら、ためしに電話帳をめくってみてください。もしあったとしても、いたずら電話かけたりしてはダメですよ。


●最近の仕事と危険なブログ(2005.5.25)

 え、なに? 両親が日本人とイタリア人で、ナポリ生まれの日本育ち? 私のプロフィールをマネしたんじゃないの、加藤ローサさんってば、もう。

 妄想はこれくらいにしておきまして(ちなみにデビュー(?)は私のほうが先だと思いますので、こちらがマネしたわけでもありません。偶然です)、連載中の日経ビズテックがまたしても発売されました。

 今回のネタは『尊敬されたい!』です。こどもを対象とした意識調査には必ずといっていいほど「あなたは親を尊敬していますか」という質問がありますが、そんなことを気にしているのは、じつは日本人だけなんです。劣等感まみれの日本のオトナたちに希望の光を投げかけるなんともありがたいお話、詳細はぜひ日経ビズテック最新号でご確認ください。

 さて、先日『季刊民俗学』の2005新春号を読んでいましたら、川口幸也さんのおもしろいコラムに目がとまりました。exposeとかexhibitは「展示する」の意の英語なんですが、こういった行為の度が過ぎると、exhibitionism「露出症」だのexpose oneself「性器を見せる」といった病的な状態になるのだそうです。最近、たいした目的もなくサイトの日記やブログで自分の日常生活をさらけ出すのがブームになっていますが、それも一種の病的な状態ではないかと川口さんは危惧しています。

 なんだよ、また学者のネット批判かよ、と鼻白むかたもおられるかもしれませんが、紋切り型の批判とはちょっと違うと思うんですね。川口さんが問題にしているのは、「たいした目的もなく」の部分でしょうし、私もそこがひっかかります。

 とくに私が気がかりなのは、もともとくよくよしがちなタイプの人がブログを始めた結果、もっとくよくよしてしまう危険性です。では、くよくよOL(独身・29歳)がたいした目的もなくブログを始めたことで、さらなるくよくよの泥沼にはまっていく様を想定してみましょう。

 世間ではみんなブログをやってるというのにワタシはまだやってない。やっぱり始めなきゃダメかしら(くよくよ)

 ブログを始めてはみたけれど、三日でネタが尽きちゃった(くよくよ)。でも更新しなきゃ日記の意味がないじゃない。書かなきゃ、書かなきゃダメよ(くよくよ)

 なんか、ブログに書くことといったら、読んだ本と観た映画の感想ばかり(くよくよ)。ああ、ワタシの日常って、なんて平凡で退屈なのかしら(くよくよ)。カルチャーセンターのエッセイ教室に通ってもちっとも文章上達しないし(くよくよ)、あの講師、身の回りの出来事をおもしろおかしく書けばいいとかいうけど、そんなに身の回りにおもしろいことばかり起きないわよ、鶴瓶じゃあるまいし(くよくよ)。気がつけばゼクシィの定期購読3年目だし(くよくよ)、ワタシの人生には、なぜドラマが足りないの(くよくよ)

 ――このように、ブログを書くことで自分の平凡さが浮き彫りになり、くよくよをこじらせてしまうことにもなりかねません。ブログに縛られてくよくよするくらいなら、ブログなどやらないほうが精神衛生上も好ましいでしょう。

 ああ、でもくよくよさんは、やらなきゃやらないで、やっときゃよかったとくよくよするんですよねぇ。いっそのこと、「ワタシのくよくよ日記」と題して、自分がいかに毎日くよくよしているかを、とことん突き詰めるのも一興かと。


●最近の仕事とタブー(2005.4.27)

 隔月刊の新雑誌『tone』(ユニバーサル・コンボ刊)で「コドモダマシ」という連載を始めました。創刊号が発売中です。

 こどもの疑問を父親がヘリクツで丸め込もうとする、ほのぼのとしたホームドラマ――のようでいて、じつはけっこう皮肉が効いていたりする、風変わりなお話です。とりあえず、オルタナティブ教育論コント、という新ジャンルを掲げてみました。

 近頃、古いものや伝統は無条件に素晴らしい、昔の人は全員偉いんだ、みたいな程度の低い権威主義でこどもを屈服させようという、それこそこどもたちにとっては「ウザい」オトナが増えました。伝統がすべて価値あるものなら、江戸時代に多かったフリーターや居候も奨励するのがスジってものです。

 本屋に並ぶ本のタイトルも、先生は偉い、だの、大人のいうことを聞け、だの、なんだかおっさん連中の悲痛な叫びで充ち満ちていまして、30代後半のプチおじさんである私もいずれはこうなるのだろうか、と、いたたまれない気持ちでいっぱいです。

 かと思えば、こどもたちの思考力低下が問題だ、という嘆きも聞こえてきますが、おやぁ? この二つは両立できないでしょう。思考力ってのは、常識を疑う力なんです。常識の範囲内で考えることもできそうですが、それは思考というより、すでに与えられたパターンを選んでるだけです(受験勉強はほとんどこれなので、思考力の訓練にはなりません)。つまり、思考力=常識を疑う力=反骨心、ですね。となると、こどもたちの思考力を高めたら、オトナ社会の欺瞞――親や教師は自分たちが思うほどには偉くないのだという実態が、こどもたちにバレてしまうではないですか。

 というわけで、思考力と思いやりの心を両立させるカギは、愛情あふれるヘリクツにあるのではないか、ってなことを提唱する野心的な試みの新連載。このコンセプトはいま思いついたので、今後どうなりますやら、私にも予測できません。

 話変わって、この4月より、全国各地の大学で『反社会学講座』が本当に講義のテキストとして採用されているようです。シャレのわかる講師のかたがいらっしゃるのは喜ばしいのですが、大丈夫ですか? 学内に保守派社会学者の重鎮みたいな教授がいると、目の敵にされるかもしれませんのでお気をつけください。

 そもそも、社会の見方に疑問を投げかけるのが社会学だというではありませんか。だったら、保守派の社会学なんてのは存在してはいけないはずなんですね。常に社会のタブーに挑戦だっ、てなもんで、「麦芽を使ってないビールは、まずくて飲めたもんじゃない!」と叫んでみたりとか……ああ、そんなんじゃないんですか。この夏、ビール業界ではきっとタブーだと思いますけど、まあ、ともかく、学生のみなさんは、せっかく大学に入ったんですから思考力と反骨心のカケラくらいは掴んでいってくださいな。


●最近の仕事と大人げない話(2005.3.26)

 こんにちは。ダーリンはニセ外国人、パオロ・マッツァリーノです。

 性懲りもなく連載中の日経ビズテック、次号は3月下旬発売です。今回のネタは「くよくよのラーメン」。こだわりのラーメン屋がどれだけ潰れているかを統計から割り出すという、(おそらく)史上初の後ろ向きな試みは、外食業界のみなさんにとってはいい迷惑です。断っておきますが、日経ビズテックは真面目な雑誌(ムック)です。ふざけているのは私のコラムだけで、他はすべてお堅い記事ばかりです。

 もうひとつ、4月末あたりに発売になるもう少しくだけた雑誌でも、風変わりな連載を始める予定ですが、詳細はまたそのうち。

 雑誌などの仕事ばかりにかまけてサイトの更新をさぼっているようで申し訳ありません。もともと反社会学講座自体、異端と破綻の綱渡りみたいなスタイルだったわけで、私としてもさらにいろいろなことに挑戦してみたいのです。

 その一環として、去年から長いことかかって落語と反社会学を混ぜた新趣向のものを書いたりしていたのですが、あまりに長い(原稿用紙百枚分くらい)ので、刈り込んでから発表しようかと思います。

 なんでわざわざこんなことをいうのかといいますと、なんでも今年は落語ブームが来るとかで(私が物心ついてから落語ブームなんてものが来たおぼえはないので、にわかには信じがたいのですが)、あとで発表したときに、なんでぇブームに便乗しやがって、といわれるのがシャクだから。

 ところで、例の学者さん2名による私への批判ですが、期間限定掲載といってたくせにまだ公開しているようですね。おそらく、こちらが取り上げたせいであちらのアクセスも増えて、それで気をよくして公開を続けているのでしょう。なんだかまた社会学を盛り上げることに一役買ってしまったようです。このぶんだといずれ日本社会学会から感謝状を贈られるはめになるかもしれません。

 前回の反論(御意見無用4)は珍しく熱く語っていたので驚かれたかたもいるでしょう。ひとつには、持って回った煮え切らない文章でたいしたことない内容を意味ありげに書き連ねる学者連中に、ほとほと愛想が尽きていたからです。

 それでまた日本人には、なぜかわかりづらい文章をありがたがる悪いクセがあるんですね。悪文信仰にどっぷりはまっている役人や学者たちが、「こどもや学生の読解力を向上させるにはどうするか」なんて、いま文部科学省あたりで相談してる最中ですから、いずれわかりづらい文章で中身のない対策が公表されることでしょう。

 あと、批判には多かれ少なかれ嫉妬が含まれるものだという、かなり痛い真理を突いてしまったので、そこを不快に感じた人もいるのでは。でも、これは真実なんでしょうがない。私もあなたも例外ではありません。

 でも、感情的な批判がいけないかというと、そうともいいきれないのが難しいところです。私のふざけた反論に「大人げない」なんて思った人がいたら、それはそれでかなりアブナい。日本人は昔から、他人に意見をいわせないために「大人げない」とか「大人になれよ」などの言葉で牽制してきたわけで、あなたはその言論統制のワナに知らず知らずのうちにはまっているのです。それに気づかないと、「大人げないから」という理由で、個人の当然の権利を主張することさえ自粛してしまうようになるのです。コワいですねえ。

 オトナになろうとするあまり、反骨精神や情熱まで失ってしまってはいけません。みなさんも、ときには思い切って大人げないことをいわないと、つまらないオトナになってしまいますよ。


●最近の仕事と悪口(2005.2.7)

 日経ビズテックという隔月刊の雑誌で連載が始まります。

 連載のタイトルどうしましょうかと聞かれ、いくつか案を出したのですが、ふざけて最後に書いた「日経よく読まない人」がなぜか採用されてしまいました。日経新聞のテレビCMで、購読申し込み電話番号を「日経よくよむ(4946)」といってたので、それをもじったというだけの、その場の思いつきだったんですけど。

 1回目は「実質GDP祭り」で、これ、もともとはネット公開用の新作ネタにしようと書いていたものの短縮版なので、反社会学講座第25回といってもいい内容です。ぜひ雑誌をご覧ください(ネットでの公開予定はありません)。ただし、びっくりするくらい高価な雑誌なので、買ってくださいね、と気軽にいえないのが難点です。

 というわけで講座の更新はないのですが、先日、社会学者のかたによる『反社会学講座』に批判的な書評がネットで公開されましたので、それへの反論を「御意見無用4」として掲載します。

 ことわっておきますが、私への批判はかたっぱしから血祭りに上げてやる、なんてつもりはさらさらありませんので、誤解のなきよう。もしあなたがブログで『反社会学講座』の悪口を書いていたとしても、あわてて削除したりする必要はありません。もちろん誉めてくれるほうがうれしいには決まってますが、批判がまったくなければ、それはもっと不健全ですから。

 今回、私が反論を書く気になったのは、相手がプロの学者であるということと、かなり誤解されている点が多いように思えたからです。相手がプロなら相当キツイことをいっても許されるでしょう。また、「エンターテインメントとしての学問」というテーマを語るのにちょうどいい機会でもあると判断いたしました。社会学うんぬんでなく、学問全体への私からの問題提起ととらえていただければ幸いです。


●最近の仕事(05.1.16)

 紀伊國屋書店の広報誌『i feel』2005冬号にインタビュー記事が載ってます。(紀伊國屋書店のサイトにも掲載されています。)

 去年の10月に受けたものなので、話した内容をだいぶ忘れていて、こんなことしゃべったかなあ、とまるで他人事のよう。

 なにしろ2時間近く、テーマもへったくれもなく、録音用のカセットテープが終わってしまってもしゃべり続けて、お茶のおかわりが出てようやく、あ、そろそろ帰れって合図かな、とやめたくらいで、編集担当のかたは、さぞかしまとめるのに苦労されたことでしょう。

 話すのは難しいし、怖いですね。書くのと違ってしゃべりは推敲できませんから。 自分でも何をいいたいのかよくわからないインタビューになってしまってますが、同時掲載の「私が(あるいはたぶん無意識のうちに)影響を受けた8冊」というブックガイドでは、私の興味がもともと社会科学系ではなく人文系にあることがおわかりいただけるかと思います。ご興味のあるかたはご一読を。

 そういえば以前、『反社会学講座』の著者は社会学をわかってない、素養がない、なんてご批判も漏れ聞いたりいたしましたが、私にいわせれば、社会科学(社会学のみでなく法律・経済などひっくるめて)の本が総じてつまらないのは、書き手に人文系の素養が欠けているからです。

 人文系の人は、社会や人間の営みを文化としてとらえますが、社会科学系の人はシステムとして割り切ろうとします。そんなんで満足してるから、社会科学はいつまでたっても薄っぺらなんです。文化には参加したくなるけど、システムからは逃げ出したくなるものです。だから社会をシステムとしてとらえてしまえば、人間疎外の悲観論に行き着くのは必然です――と、これが、社会科学系の人がスーペーさんになってしまうシステム。

 ですから、悲観論ばかりたれ流す社会学者を街で見かけても、決して責めたりこっそりつねったりしてはいけません。ああ、この人はスーペーな星のもとに生まれついているのだなあ、不幸な人だなあ、と同情し、「社会は批判してもいいけど、人間は肯定しようよ」とあたたかい言葉をかけてあげてください。

 さて、講座の更新を楽しみにしてくださっているかたには申し訳ないのですが、用意していた新作ネタを2月発売の某雑誌にまわしてしまいました。その情報はまた後日。


●近況2004年秋

 しばらく更新をしていないので、もうやめてしまうつもりだろうか、燃えつき症候群かしら、と心配されたり、やっこさん、本が売れたもんだからバカンスとしゃれこんでやがるのさ、と30年くらい昔の日本映画のセリフのようなやっかみをいわれたりもしかねないので、コラムと補講でお茶を濁しておきましょう。

 更新しないのは、夏場暑くてやる気が起きなかったせいもありますが、いろいろなネタを並行して調べていて、なかなかまとまらないせいもあります。私はべつに、雑学自慢をして尊敬されたいわけではないので、本を読んで得た知識をそのままたれ流すような安易な書きかたはしたくありません。ネタをどういう切り口で料理して、私なりの味付けをするかという点に心を砕いているのです。気楽に書きとばしているように見えるかもしれませんが、いつもけっこうくよくよしながら何度も書き直してます。

 ですから、語り口がひとつの芸になっていると評価してくれた書評があったのが嬉しかったですね。わかる人にはわかるのだな、と。『反社会学講座』をつまらないと否定する人は逆に、芸として認めてくれないのでしょう。まあ、笑いに対する好みは人それぞれですし、私の場合、特に好みのわかれるマニアックな芸風なので仕方のないところです。

 今後は更新のペースを落とすかもしれませんが、続けるつもりではおりますので、たまに気が向いたら見に来てください。

 書籍版『反社会学講座』はありがたいことに地味に売れ続けております。書店によって温度差があるのがおもしろいです。売上ランキングベストテンとかに顔を出すほどのお店もあれば、ほとんど動きがないとこもあったりしまして。売れる売れないは、書店員さんの知的レベルの差ですかね、なんていうと語弊がありますか。じゃあ、客の民度の差。もっと語弊がありますか。次は万人にうけるよう、泣ける恋愛小説を書きます。ウソです。

 ところで私とて座して売れるのを待っていたわけではなく、サイトでの宣伝以外にも営業活動に取り組みました。山本夏彦ではありませんが、「世は広告」ってなもんで、いまどき宣伝・広告をしないでモノを売ろうなんて料簡は通用しません。

 発売翌週(6月末)には、さっそく新幹線で大阪・京都に乗りつけ、書店を営業してまわりました。なぜわざわざ関西まで出掛けたか。出版社は東京にありますので、東京地区の書店は営業のかたが担当してくれるのですが、関西まではなかなか手がまわりません。だったら私が行くまでだ、と出版社に頼まれたわけでもないのに著者自ら書店営業をした次第で、書店のかたには珍しがられました。

 大阪は東京より暑いと聞いていましたが、聞きしにまさる猛暑でした。大阪はたこ焼き屋だらけだともいわれましたが、たしかに道のそこここでたこ焼き焼いてました。このふたつの観察結果から「みんながたこ焼き焼くと、大阪が暑くなってしまう」と結論が導き出されます。これを経済学では合成の誤謬(ごびゅう)といいます(真に受けて大学のレポートや試験に書かないように)

 8月には東京神田の三省堂書店で本にハンコを押しました。本当はサイン本を頼まれたのですが、サインしてといわれて照れもなくする人って、なんかイヤラシイじゃないですか。そういう人って絶対、家でサインの練習なんかしてるに違いないんですよ。「そうだ、名前の最後に星つけちゃおっかなー」とかいいながら。

 それでまあ、私は2センチ角の蔵書印みたいなのを作って、サインの代わりに押したのです。60冊ほど押しまして、こんなもん欲しがる人がいるのだろうかと心配でしたが、完売したらしいです。もともとの本のデザインであるかのようにさりげなく押したので、普通に本が読みたかっただけのかたが知らずに購入したのかもしれません。これがもしサイン本だと、うっかり買ってしまってから気づいて「うわ。なにこれ、サインなんかしてある、何様だよ。名前の最後に星つけんなよムカツク」ということにもなりかねません。


●補講

 雑談ばかりでもなんですから、ちょっとは反社会学っぽいこともやっておきましょう。先日、興味深いご指摘をいただきました。
「昭和33年に少年による強姦の検挙数が急増しているのは、その年から、2人以上が共謀した強姦が非親告罪になったからではないか」

 お忘れになっているかたのために、いま一度おさらいしますが、私は講座の第2回で、少年による強姦の検挙人員は、昭和33年に前年比1.6倍に跳ね上がっていたことを紹介しました。で、いったいこの当時の少年の下半身はどうなっちゃってたんだろうかしら、ねぇ奥様、というハナシでした。

 もともと私は犯罪学や刑法の専門家ではありませんから、強姦に関してそんな法改正があった事実も、指摘されるまで知らなかったのです。だから、やはり詳しい人がいるものだ、貴重な情報ありがとう、と素直に感謝の気持ちを――

 って、またまたぁ。みんな真面目な顔して人をかつごうとするんだから。危ない危ない、うっかりダマされるところでした。といいましても、手元にあった法律関係の書物を見たら、2人以上が共謀した強姦が非親告罪というのは事実でした。改正されたのが33年だったかどうかは確認してませんが、そんなところでウソをつくとしたら妄想癖か虚言症ですので、本当でしょう。

 私が疑ったのはその事実でなく、そこから一足飛びに強姦検挙数の急増の原因と決めつけている推論の部分です。「急増した33年の前後でなにか変わった点はないだろうか……ややっ、法改正があったのか。これだな。これが無関係であろうはずがない……」たぶんそう考えたのではありませんか? 図星でしょう。で、裏付けを取らずに決めつけた。それだとあなた、データも見ずに少年が凶悪になったと騒いでいる三流記者を笑えませんよ。

 まずは親告罪について説明しておきましょう。簡単にいえば親告罪というのは、被害者が「犯人を捕まえてくれ」と申し出てはじめて、罪になる犯罪のことです。つまり被害者が許してしまえば、(たとえ罪を犯したのが事実であっても)犯人が罪を問われることはありません。強姦がまさにそれに該当しまして、それゆえに、事件として表ざたになる強姦は氷山の一角であろう、とされているのです。

 しかし、2人以上の犯人による強姦は卑劣きわまりない悪質なものなので、これにかぎっては被害者からの申し出がなくても、犯行が露見すれば犯人を罪に問えるようになったわけでして、それが昭和33年の出来事だ、というのが、寄せられたご指摘の意味するところです。

 それでは冷静に考えてみましょう。強姦は通常、人目につかない場所で行われます。近所の人の通報で警察が駆けつけて犯人を取り押さえる可能性もなくはないですが、あまり期待はできません。そういう悪行に走る輩(やから)が自首するとも思えません。それに、強姦の事実を表ざたにしないでと被害者本人が望んだら、たとえ家族や知人が犯行を知ったとしても、被害者の意志に反してまで通報するとも考えにくい。つまり強姦は、非親告罪になったからといって急激に逮捕者が増える性質の犯罪ではないだろう――。これが、私が抱いた疑念です。

 もちろんこれは常識と論理にもとづく仮説でしかありません。証明するには、データが必要です。こういうときには警察庁が毎年発行している『犯罪統計書』を利用したいところなんですが、この資料、大学・公共の図書館で古いものから全巻揃って所蔵しているところは、めったにありません。ここ数年のものは警察庁のサイトにありますが、何十年も前のものとなると霞ヶ関の警察庁まで出向いて見せてもらわなければなりません(実際、私は一度行ったことがあります)。各都道府県警本部でもおそらく保管していて、頼めば閲覧させてもらえるはずですが、古いものまで揃っているとはかぎりません。

 いずれにせよ面倒なので、とりあえず図書館にある『犯罪白書』を手がかりにしようと思ったら、『犯罪白書』が発行されたのは昭和35年からだったことに気づきました。手抜きを見透かされたか、と渋い顔で仕方なくページを繰っていたら、昭和37年の白書で、犯罪の共犯率のデータが過去数年分さかのぼって載っているのを発見しました。

 カンのいいみなさんは、もうおわかりですね。そう、強姦で非親告罪になったのは「2人以上」の犯行だけです。ということは、もし、非親告罪のせいで昭和33年に強姦検挙数が急増したという例の説が正しいとしたら、33年には検挙した強姦事件中の共犯率が急激に上がっているはずです。

 少年による強姦の共犯率、昭和32年は36.0%。33年は42.6%。6.6%の増加です。たしかに増えてはいますが、強姦件数1.6倍もの急増の原因をこれと結びつけるのは無理があります。よって、昭和33年の少年による強姦の急増は、非親告罪になったという法律の変化で説明することはできない、といえましょう。

 ほら、けっこう常識的思考も役に立つでしょう。いつもひねくれたレトリックを使ったり、妙なアイデアで社会問題を解決しようと試みたりするので、みなさん私のことを非常識なヤツだと思っているかもしれませんが、ホントは私こそが常識人であり、もっともらしい妄言で世を惑わしている評論家や学者のほうが、非常識なんです。

 さて、最後に宿題。書籍版の『反社会学講座』で私は、この時期の強姦の増加について、昭和33年施行の売春防止法との絡みを臭わせるような書きかたをしております。他人のこといえねえじゃねえか? ごもっとも。ですが、その絡みをはっきり否定する論理を思いつかないし、裏づけるデータもありません。われこそはというヒマなかたは挑戦してみてください。(あるいは、すでに誰かが研究して白黒つけているのかもしれませんが、私は犯罪学の文献を漁ったわけではないので知りません。)

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