『怒る!日本文化論』についてあれこれ語ってみました

日本人のための怒りかた講座
ちくま文庫
税別840円
2016年7月発売


怒る!日本文化論
技術評論社 刊
税別1480円
2012年11月発売


(文庫版は『日本人のための怒りかた講座』と改題。本文にはほとんど変更はありません。文庫版まえがき 有名人の怒りかたを採点してみよう を加筆しました。)

 たいてい書き下ろしで出すもので、私の本は、当初の企画段階と完成時とで内容やコンセプトが大幅に変わってしまうことが珍しくありません。文献調査などで材料が集まったら、なんとなく書き始め、疑問が出たらまた調べて何度も書き直すという、行き当たりばったりで非効率な書きかたしかできないのです。
 今回の本もご多分にもれず変わりました。当初の仮題は「驚育快革」として、既存のいろいろな教育法を検討して批判したり茶化したりしつつ、さまざまなアイデアを提案しようというコンセプトだったのです。
 でも書いてるうちに、これまで自分で実践してきた他人に注意する、怒る、叱る方法論の説明部分が膨らんできたので、内容と全体の構成をかなり変えて、怒りを軸に理論と実践の両面から、日本文化や日本社会、日本人について考察する内容になりました。
 怒りをむやみにガマンせず、相手に伝えてコミュニケーションをはかる努力をしてみようじゃないかという主張を込めて、書名は「ユー、怒っちゃいなよ」にしたかったのですが、ジャニーさんからクレームがつくと面倒だということで、『怒る!日本文化論』に落ち着きました。

はじめに「むかしから叱れなかった日本人」
 本書での私の主張とスタンスは、「はじめに」に集約されているといってもよいでしょう。『反社会学講座』以来、一貫して主張してきた歴史観である、”人間いいかげん史観”を今回も踏襲しています。人間は少なくともこの数百年、たいした進歩も退化もしていない、いまもむかしも相変わらずダメでいいかげんな存在なのだ、とする史観です。
 ここでは、むかし存在したとされる、よその子を叱る近所のおじさんを例に取りあげてます。そういうおじさんのことはだいぶ美化されて語られてます。実際には戦前だって大部分のおじさんたちは、よけいなトラブルに首をつっこむのをおそれ、見て見ぬフリをしてたんです。お叱りおじさんみたいな一部の奇特な人は、おそらく当時は周囲から、口うるせえおやじだな、と煙たがられていたのだろうと思いますよ。いまの世の中で実際にやってみた私の実感からしますとね。
 私は、「むかしの日本人は立派だった」という人たちが嫌いです。そういう人たちは、現代の日本人を憎み、蔑み、貶めているからです。だったらご自分もお叱りおじさんになればいいのに、やろうとしない。現代に不満があるのに自分がなにもできない情けなさを、美化した過去をしのぶことでごまかしているだけなんです。
 私は現代の日本人だって、けっこうがんばってると思いますよ。いつの時代にも、立派な人もいればダメな人もいる。そんなあたりまえの歴史の真実を、なぜ受け入れられないのでしょうか。
キーワード:戦前・戦後の道徳教育 こどもを叱る近所のおじさん

1「叱りかたの三原則 1まじめな顔で」
2「叱りかたの三原則 2すぐに」
3「叱りかたの三原則 3具体的に」
 なにしろ本書は「生きる技術!叢書」の一冊として刊行されています。哲学や思想を気の合う仲間同士で語るだけでは、生きていることにはなりません。現実の世の中で生きるとは、人生観や道徳観や知的レベルの異なる他人と、どうにかこうにかつきあっていくってことなんですから。
 というわけで、さっそくですが、1章から3章までは、実践編。近所で、電車で、図書館で、他人に注意するお叱りおじさんを実践してきた私の体験から、効果的だったと思える注意のしかた、まずはその三原則からはじめましょう。詳しくは本書で。
 『怒る!日本文化論』は文化論を語る人文書でありながら、生活実用書としてもお読みになれる希有な本なのです。

4「怒りと向き合う」
 怒りをおさえるだの、怒りをなくすだのといった本が売れてるのだそうです。怒ることはいけないこと、怒りは穢れだとみなす風潮が広まっていることに、なにより腹が立ちます。
 怒ってる人は、なんらかの被害を受けている(受けていると感じている)から怒ってるんじゃないのですか? なのに怒るなというのは、被害者に泣き寝入りを強いる一方で、怒りのもととなった加害者の権利のみを全面的に容認することになります。なんとも理不尽極まりない。
 笑いも悲しみも怒りも、人間の自然な感情であることにちがいはありません。怒りだけを忌み嫌って遠ざけるのでなく、怒りにとことん向き合って考えることも大切です。そうすることで怒りの正体が見えてきて、改善への道が開けることもあるのですから。
キーワード:波平とバカモン 怒らないための本 仏教と怒り 甘えた大人への復讐 ガマンのメリットとデメリット

5「怒るのは正義のためではありません」
 ここでは怒りと正義について考えます。カン違いしてる人がもっとも多いのが、この点かもしれません。社会正義や大義のために、マナー違反者や迷惑な人を注意しよう、なんて意気込んでいる人は、絶対に長続きしません。
 過去、あまたのヒーローたちは、必ずといっていいほど正義という概念の矛盾に悩み苦しんできました。なぜ矛盾が生じるのでしょう? じつは正義にとっての最大の敵は、悪ではなく、完璧主義だからです。
キーワード:正義と大義 ガーディアン・エンジェルス 完璧主義

6「注意するのは危険なことなのか」
 迷惑な人を注意したら、逆ギレされて殴られた――そんな報道をときたま耳にします。
 迷惑な人を注意したら、素直に応じて迷惑行為をやめてくれた――そんなニュースが報道されたためしがありません。
 迷惑な人を注意したが、シカトされて何事も起こらなかった――これも報道されません。
 これはいわゆるメディアリテラシーの問題です。事件は報道されますが、事件にならなかったことは報道されないのです。なのに報道された偏った事実だけをもとに、注意すると殴られるというイメージを組み立ててしまってはいませんか。
 さて、他人に注意することは、実際にはどれだけの危険を伴うものなのか。駅や電車での暴力事件は、本当にむかしより増加しているのか。モンスターは急増しているのか。実際に注意してみた私の経験と、統計資料などから探ってみました。
キーワード:公共マナー世論調査 世論調査のウソ 図書館での携帯電話マナー カッとなる理由 犯罪統計 電車内暴力 

7「電車マナーの近現代史」
 この章が、これまでの私の著作ともっとも近い内容だと思います。各種資料をもとに、世間の通説を覆す、みたいな? 感じっすか? マジで? そういうのを望んでいるかたは、「はじめに」を読んだら次にここをお読みになるのもいいかもしれません。
 電車で年寄りに席を譲らない若者は100年前にもいたのです。明治時代から都市部の市電や電車内はずっと禁煙だったのに、無視して吸う人たちに鉄道会社は手を焼いてました。
 そして、車内で化粧をする女性。彼女らをコラムでは激しく叱っても、面と向かっては叱れないヘタレ識者・文化人のみなさんに送る、車内化粧の歴史検証と海外比較による現実。これを読めば、世間に流布する庶民文化や庶民道徳の通説が、いかにあてにならないものか、思い知ることになるでしょう。
キーワード:電車のマナー 老人に席を譲らない若者 車内禁煙をめぐる戦い ご遠慮ください 人前での化粧 都市伝説化する庶民史

8「犬とこどもと体罰と」
 2012年に中国で起きた反日暴動には、私も激しい失望と憤りをおぼえました。異なる意見が衝突することは当然あるし、それを主張することはかまわない。けど、なにが許せないって、強奪や破壊行為を、愛国無罪などと唱えて政治思想で正当化してたことが不愉快なんです。中国人だろうが日本人だろうが、右であれ左であれ、政治思想で暴力犯罪を正当化する連中は最低です。
 とはいうものの、国際問題のような大きな問題に怒りを表明することばかりにかまけて、身近な問題から目をそらしてしまってはいけません。いえ、身近な問題にこそ真剣に取り組まねばいけません。どんな大きな問題も、発端は小さな問題からだったりするのですから。
 ここ数年、日本ではペットブームの広まりとともに、愛犬無罪とでもいうべき不愉快な思想が幅をきかせつつあることに、私は怒ってます。
 しつけのできてない飼い犬が近所の人にどんな迷惑をかけようが吠えまくろうがへっちゃら。苦情をいわれてもなんの対処もせずに知らんぷり。犬は大切な家族だけど、近所の人は無関係な他人だから、不幸になってもかまいやしないと考える勝手な人たち。
 もちろんそれは一部の心ない飼い主だけでしょう。だからといって、実害が出てるのを放置してよい理由にはなりません。
 私は犬が嫌いなのではありません。きちんとしつけもせずに犬を甘やかして喜んでいるダメな飼い主が嫌いなのです。
 いろいろ調べるうち、犬のしつけと人間のこどものしつけは、基本的に同じなんじゃないかと思えてきました。そのひとつが、体罰には効果がないということ。
 犬を蹴飛ばしてしつけてたら、きっと動物虐待と大騒ぎされ、異常者呼ばわりされます。なのに、こどもへのしつけと称して体罰をふるうと許されるどころか指導力があると尊敬されかねない、歪んだ日本の倫理観にメスを入れます。
キーワード:体罰 動物愛護 イルカ肉とイヌ肉 犬による咬傷被害 吠える犬 犬のしつけとこどものしつけ

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