『エラい人にはウソがある 論語好きの孔子知らず』内容紹介

「昔はよかった」病
さくら舎
税別1400円
2015年10月発売


 タイトルと中崎タツヤさんのイラストからは、なんの本だかわからないでしょうけど、サブタイトルにあるように、『論語』と孔子がテーマです。
 日本人の思考に理屈で説明できないねじれがあることの原因は儒教道徳にあるのではと疑っていた私は、儒教の親玉とされる孔子も、うさんくさいオヤジだと軽蔑してました。
 そんな私に再考のきっかけをくれたのは、浅野裕一さんの『儒教 ルサンチマンの宗教』という一冊の新書でした。
 従来伝えられてきた孔子の偉人イメージを徹底的に破壊し、孔子を中国最大のペテン師と喝破するこの本にしびれた私は、孔子に関する書物を読み漁り、孔子の言葉の集大成である『論語』を読み直してみたのです。
 すると、またまた私の孔子評価は変わりました。たしかに孔子は偉人イメージからはほど遠い人です。だけどペテン師と斬り捨てるほどの悪人でもない気がします。
 生涯努力したけど報われなかった哀しいポンコツおじさん。これが私の出した結論です。
 すると逆に、孔子に親近感を抱けるようになりました。
 私はダメな人を否定しません。自分も含め、よのなかの大半はダメ人間だと思ってます。だけど人間はダメだからこそ、おもしろい。立派な人ばかりじゃ、よのなかはつまらなくなってしまいます。孔子はダメをこじらせてたイタいおじさんだからこそ、本当の孔子からは学べることがたくさんあるのです。
 捏造された偉人イメージをひっぱがし、ありのままの人間くさい孔子の真の姿を日本のみなさんに知ってもらいたい。それが本書の狙いです。

 ざっくりわけますと、前半、第3章までが基礎編。4〜6章が日本での『論語』受容史や孔子の再評価をまとめた本編となってます。なので、孔子と『論語』についてある程度基礎知識のあるかたにとっては、前半は冗長かもしれません。第4章から読みはじめていただくのも、アリだと思います。

序章『ありのままの孔子』
 『アメトーーク』というテレビ番組ではときおり、なにか特定の対象が大好きな芸人たちが集まってその魅力を語る企画をやってます。ジョジョ、ガンダム、サウナ、プロレスなど、さまざまなテーマが取りあげられました。
 でもさすがに、孔子がテーマになることはありえないと思いましたので、私が創作してみた次第です。もしも古代中国にテレビがあったらという設定で、孔子の没後100年を記念して、スタジオのひな壇に集った孫弟子たちが、孔子のおもしろエピソードを回想するバラエティを模してみました。

第1章 歴史的に正しい孔子と論語の基礎知識
 伝説などを排除した、歴史的に正しい孔子と『論語』の基礎知識を紹介しています。ページ数が少ないのは、当初はこれが序章になる予定だったから。

第2章 本当はかっこ悪すぎる孔子の人生
 偉大な思想家・政治家とされる孔子の虚像をはぎ取っていきます。
 そもそも孔子は思想家ではないし、儒教の始祖でもありません。実際には大臣になれなかったようだし、弟子が3000人いたというのも物理的にありえません。もしも3000人もの生徒を収容できる巨大な校舎と寄宿舎があったら、世界遺産です。

第3章 まちがいだらけの論語道徳教育
 『論語』は学校の道徳教育や企業の社員教育に有効だと主張する本が何冊も出ています。そういった本のほとんどは、『論語』を自分の主張に合うように、都合よく自己流解釈でねじ曲げて解説しています。
 私は『論語』が教育に使えないとはいってません。ねじ曲がった解釈で『論語』を道徳教育に使っている教育者たちが許せないだけ。
 批判するだけでなく、『論語』を生きた教材として道徳教育に活かす具体策を提案します。

第4章 封印されたアンチ孔子の黒歴史
 おどろおどろしい章題がついてますが、ここからが私の真骨頂(自分でいうな?)。文献資料を駆使して、歪んだ歴史解釈を矯正していきます。
 本章では平安から江戸時代までの日本で、孔子と『論語』がどう扱われてきたか、その受容史をあきらかにします。
 孔子信者たちは、孔子が偉人の仲間入りを果たした江戸中期以降の歴史にしか触れません。なぜかというと、それ以前、孔子は世間的にはほぼ無名の存在でしたし、知識人からは小馬鹿にされていることが多かったから。
 江戸幕府によって公式に偉人認定された孔子ですが、江戸庶民の評判は異なっていたようです。
 私がもっとも興味を惹かれたのは、江戸儒教の総本山、昌平坂学問所(昌平校)の歴史でした。
 初期の昌平校は、非常にリベラルな学問と議論の場でした。儒者が近所のヒマ人にも講義をしてあげてたそうです。それを厳格なエリート養成機関へ変えたのは、幕府の方針転換だったのです。

第5章 渋沢栄一と論語をめぐるウソ・マコト
 渋沢栄一といったら、明治期に日本経済の基礎をすべて作ってしまったといっても過言でないくらいのスゴ腕実業家。なのに、映画やドラマで取りあげられる機会がほとんどないせいか、世間での知名度は非常に低い。私はお札の肖像としてもっともふさわしい人だと思ってます。
 残念でならないのは、渋沢の経済人としての業績が、正当に評価されてないことです。渋沢というと、論語の精神によって人間味のある誠実なビジネスをやった人、みたいな評価ばかりが目立ちます。
 本章では渋沢と『論語』の関係性を軸に、明治・大正期の日本における『論語』受容史をひもときます。
 あらためて検証すると、現役時代の渋沢は『論語』の話をほとんどしてません。『論語』の精神でビジネスをしていたという話には、なんの裏づけもないんです。
 江戸幕府崩壊とともに忘れられていた『論語』を再発見してブームを巻き起こしたのは渋沢ではなく別の人でした。晩年の渋沢がこのブームに乗っかって活動していたら、いつのまにか『論語』再発見は渋沢の手柄みたいになってしまったのです。

第6章 孔子のすごさはヘタレな非暴力主義にあり
 ダメなポンコツおじさんだった孔子ですが、私は決して嫌いではありません。
 それどころか、一点だけ尊敬してやまないところがあります。戦乱の世のまっただ中で、非暴力平和主義を貫いたこと。
 孔子は死刑も戦争も否定しています。さらに、直接言及はしてませんが、言動から推察すると、体罰にもおそらく反対だったはず。
 これはすべて『論語』にはっきり書かれてます。なのに、孔子が非暴力平和主義者だった事実は、なぜかこれまでほとんど語られてきませんでした。
 理由はだいたいわかります。孔子や『論語』を推奨する人たちの多くが、いわゆる「保守」の人だから。死刑も戦争も体罰も肯定したい彼らにとって、孔子の平和主義は容認しがたいし、自分が支持する倫理道徳と矛盾します。となると、都合の悪い事実だけを隠すのは、さもありなん。
 孔子が平和主義なのは、考えてみればあたりまえなんです。みんなが礼儀正しくなれば争いは起こらない、ってマニフェストを掲げてたんですよ。そんな人が暴力を支持したり、武力で反対者を鎮圧したら自己矛盾です。
 さあ、孔子の非暴力平和主義をどう評価しますか。それによって、あなたの孔子イメージは激変するやもしれません。

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