第22回
末は博士か叙勲者か
〜PART1・名誉博士への異常な愛情〜

お知らせ

 この回の内容は、『続・反社会学講座』(ちくま文庫版)で加筆修正されています。引用などをする際は、できるだけ文庫版を参照してください。

●科学者じゃない博士

 白楽ロックビルさんが著書で披露しているエピソード。20数年前、博士課程に在籍していたとき、佐藤英美教授に「博士号は足の裏のご飯つぶだよ」と謎をかけられたそうです。そのココロは――「取ってもどうということはないけど、取らないとなんとなく気になる」。

 この「足の裏のご飯つぶ」の例えは以前にもどこかで耳にしたので、はたして佐藤教授が考えた持ちネタなのかどうかはわかりません。ただ少なくとも、1:くっつくほど粘りけのある米を食べている。2:足の裏につくということは、家の中では裸足で生活している。の2点から推察して、日本人にしか思いつかない(し、理解できない)例えであることだけは、ほぼ確実です。このネタがお気に召しても、海外の学会やホームパーティーで披露するのは、すべる確率が高く、危険です。

 たしかに理系の学生さんは、博士号を取るかどうかで悩むようです。というより、日本では博士号取得者の8割以上が理系の人で占められているので、文系の人は最初から悩みません。そもそも世間では、文系の博士過程などヒマ人の道楽だと考えられていますから、もしも文系の学生が博士号を取りたいなどといい出したら、ご両親から猛反対を食らいます。
「太郎のヤツ、大学院まで行って社会学の博士号を取りたいなんていい出しやがったぞ。まともに就職活動もしないで、あいつ、人生を棒に振るつもりかっ!」
「いったいどこに問題があったというの? あたしたちの育て方?」
「そういえばこの間、ひきこもりを叱ってやめさせるオバチャンっての、テレビでやってたな。あの人呼んで、やめるよう説得してもらうってのはどうだ」
「えーっ、あんな人、ウチには呼びたくないわ。だって、いつも趣味の悪いスーツ着てるのよ」
「そこなのか? 問題は」

 理系のみなさんは、まだ博士号にご飯つぶ程度の価値を認めてもらえるだけしあわせだと思ってください。ではここで、文部科学省の『教育指標の国際比較』所収のデータをもとにまとめた、各国の博士号取得者分野別ランキングをご覧ください(2000年度。カッコ内は取得者数)
 1位2位3位
日本医・歯・薬学(7053)工学(3964)理学(1586)
アメリカ人文・芸術(10659)理学(9600)教育学(6716)
イギリス理学(4100)工学(1800)医・歯・薬学(1600)
フランス理・工・農学(5621)人文・芸術(2449)法・経[社会科学](1891)
ドイツ医・歯・薬学(8618)理学(7386)法・経[社会科学](3261)

 国ごとに教育制度や分類法が多少異なることを考慮してもなお、かなり意外な結果です。博士といえば理系・科学者、のイメージは、世界では通用しないのです。独・仏では社会科学系が健闘していますし、アメリカではなんと人文・芸術系がトップです。むろん、理・工を合わせれば人文系を抜き去るのですが、同じ年に日本で人文系の博士号を取得したのが644人しかいなかったことを考えると、1万人という数字は驚異です。

 教育学の博士がこれだけ多いのも、アメリカだけの特徴です。修士はさらに多く、2000年度だけで12万9066人。これは同年日本のすべての博士・修士取得者数をも上回るとんでもない人数です。アメリカでは、公立学校(小・中・高)の教員の43%が修士の学位を持っているというデータもあるくらいで、アメリカの教員の高学歴ぶりには目を見張ります(もちろんこの数字には、教育学以外の学位取得者も含まれています)。これにはいくつか理由があります。ひとつはアメリカでは教員養成を大学院レベルで行っているところが珍しくないこと。これは修士を取ってから教師になるケースですね。もうひとつは、教員免許の更新時(先生の免許に更新があるんですよ!)の研修として、大学や大学院で科目を履修することを求めている州が多いから。その際、ついでに学位も取ってしまおうという人がいるわけで、これは教師になってから修士を取るケース。

 この例もそうですが、たいていの国では、高学歴は就職の際有利にこそなれ、不利にははたらきません。実際のところ、アメリカの先生も、修士の有無がそれほど給料の差に反映されるわけでもないそうですが、少なくともキャリアのジャマにはなりません。ところが日本の学生さんは悩みます。博士号を取ることが逆に就職の際に不利な条件になりかねないという日本特有の事情があるからです。博士課程に進むことによって年齢もプライドも高くなるといって、敬遠する企業が多いのです。しかも女性だったりするとなおさらです。

 能力・学力のある人をわざわざ敬遠し、4年できっちり卒業予定の、毒にも薬にもならない学生ばかりを採用している現実を目にすると、日本企業の「これからは能力主義・実力主義・成果主義の時代だ」という言葉が口先だけであることがはっきりします。そもそも、実力主義というのは矛盾しているのです。実力主義の会社で、自分より能力のある人間を雇ってしまったら、自分が現在の地位を追われてしまいます。おのれの保身のためには、社長も人事担当者も、自分より実力のない人間を雇うしかありません。こうして実力主義の会社は、無能な人間の掃き溜めと化していくのです。


●ありえない博士

 そういえば前回の最後では、辞退者ツッパリ伝説の続きをお話しするようなことをいいました。忘れたわけではありません。じつは文豪・夏目漱石は、博士号を辞退したことで有名です――と聞くと、博士号取得に悩む学生さんは、「ありえない」とおっしゃることでしょう。

 なぜありえないのか、と首をかしげる中・高校生や高卒フリーターのみなさんのために、学位取得の仕組みを簡単に説明しておきましょう。普通の4年制大学を卒業すると得られる学位は「学士」です。ようするに大卒者は全員学士でして、現在ではそれほどありがたみのある学位ではありません。大学進学率がいまほど高くなかった昭和30〜40年代あたりの映画やドラマには、「チェッ、あの野郎、学士様だと思ってイバってやがるぜ」なんてセリフがあります。現代の若者の耳には不思議な響きでしょう。

 『男はつらいよ』といえば、いつも寅さんの失恋話ばかりのマンネリ映画と思われがちですが、昭和44年の第1作は、意外にも学歴と社会階級がテーマの社会派コメディーです。学士うんぬんのセリフがあったかどうかはおぼえていませんが、学のない寅さんの破天荒ぶりや理不尽さがキワだっていて、単なる人情喜劇の枠をはみ出した、とんがったおもしろさがあります。

 話を戻しましょう。4年制大学卒業後、大学院の修士課程を修了すると「修士」、さらに博士課程を修了すると「博士」ですが、通常、修士・博士には論文審査もあります。つまり、大学院に行くことと、論文の審査にパスすることが、修士・博士になる条件です。この仕組みは、基本的に世界共通です。自ら望んで取りに行くのですから、論文の出来が悪くて博士号をもらえない博士失格や、博士課程中退というのはあっても、博士辞退というのは、まさにありえない話なのです。

 通常のコースの他に、日本には論文博士という特例があります。大学院に行かなくても、大学に論文を送って認められれば、博士号を授与される制度です。冒頭に引用した白楽さんの著書では、アメリカの大学関係者が「その制度は邪道だ。アメリカでは、ありえない」といってますが、怪しいものです。たしかに、一流大学ならそう断言できるでしょうけど、アメリカには素性のしれない大学がたくさんあります。

 ある日本の女社長さんは、アメリカの大学に論文送って面接試問を受けるだけで博士号を取った、と自慢しています。それだけにとどまらず、名誉博士号って肩書きがカッコイイから欲しいなあと思って論文送ったら、これも取れちゃいました――などと自分の前向きな生き方を誇らしげに語っていました。これこそ、アメリカの学者は、便座を上げたままでじかに冷たい便器に座ってしまった時みたいな勢いで跳び上がって、「ありえない!」と叫ぶことでしょう。

 名誉博士号というのは本来、なんらかの業績をあげた人に対して大学が特別に送る、賞のようなものだからです。大学中退のビル・ゲイツさんに、日本のある大学が名誉博士号を贈ったという例があります。おそらく史上最大規模の独占禁止法違反を成し遂げた業績が評価されたのだと思いますが、ともあれ、論文送ると名誉博士号がもらえるなどという制度自体、まともな大学にはありえないのです。

 アメリカには、ディプロマ・ミル(学位製造所)と呼ばれる大学が存在します。この言葉は、卒業することがとても簡単な(日本のような)大学の蔑称としても使われますが、本来は、大学とは名ばかりの学位販売業者のことを指します。喜多村和之さんの『大学淘汰の時代』によると、ディプロマ・ミルは、アメリカでは百年以上前から存在する、伝統的な教育詐欺だとのことです。違法か、違法すれすれの業界なので正確な資料はないそうですが、1985年の推測データでは、全米の勤労者200人に1人が、ディプロマ・ミルで購入したニセ学歴で職を得たとみられています。まあ、これくらいならまだ笑い話で済みますが、医者の50人に1人がニセ学歴・ニセ医師免許で診療行為に従事しているらしいと聞くに及んでは、アメリカ人が健康でいられることが、奇跡に思えてきます。

 近年、アメリカでは、ディプロマ・ミルの伝統を脅かす、ハイテク学歴詐称が問題となっています。ロイターの報道によると、ハッカーに頼んで大学のコンピューターに侵入してもらい、卒業生名簿のデータベースに自分の名前を書き加えてしまう事件が起きているそうです。もちろん、印刷された名簿や卒業アルバムなどを参照されたらウソがばれてしまいますが、通常、企業の人事担当者はそこまではやりません。就職希望者の学歴を確認する手っ取り早い方法は、大学への電話確認です。大学の事務員は、手元のパソコンに名前を入力して、「はい、たしかにその人は、95年度の卒業生です」「そうですか、ありがとう」――確認終了。コンピューターによって事務処理が効率化された現代社会の盲点を突く犯罪です。

 日本では、1960年代に学位に関するおもしろい事件があったことが、取違孝明さんの『詐欺の心理学』で紹介されています。「特許大学」なる大学が、全国の叙勲者(勲章をもらった人)に「あなたも博士になれる」というダイレクトメールを送りつけました。200万〜500万円の審査料を払うだけで、「特許工学博士」「特許医学博士」など、各種特許○○博士の学位が取得できる仕組みです。バカバカしい、と思ったあなたは、肩書きや名誉に対する人間の執着心を甘く見すぎです。申し込み者はじつに約千人にものぼり、特許大学は十数億円の荒稼ぎをしたのです。

 この事件が興味深いのは、これが詐欺はおろか、なんの犯罪にも該当しなかったという点です。これは、特許大学という株式会社が、特許○○博士という商標を登録し、その使用権を販売していたにすぎないというのが法的な解釈で、まったく合法的な商売だったのです。もちろん、工学博士や医学博士といった本物の博士名を勝手に使えば違法です。特許大学の学長(というか社長)自身が、博士号を持っていないのに名刺に工学博士と印刷していたために、軽犯罪法違反に問われたことがきっかけで、この怪しい商売が明るみに出たのですから、皮肉な話です。

 さらにおもしろいのは、購入者からの苦情が一件も出なかったことです。購入者は、特許○○博士の肩書きを名刺に入れたりして、盛んに人に自慢していたのですから、いまさら苦情をいえば恥の上塗りだ、との考えもあったでしょう。でもそれよりも、特許博士の肩書きによって、商売の売り上げアップなどの恩恵にあずかっていた人が少なくなかったというのがおもな理由だったようです。苦情どころか、特許博士の商品価値には、みなさん満足していたのです。功成り名を遂げた人たちにとって、現在の地位と釣り合わない低い学歴は、想像以上に強烈なコンプレックスなのです。彼らにとって、たった500万円で買える高学歴は、とてもコストパフォーマンスに優れた商品だったといえましょう。


●使えない博士

 世間の人たち――とくに年配のかたがたにとっては、博士は絶大な権威です。お昼のテレビ番組で医学博士が「○○を食べると老化の予防になる」といえば、年寄りは一斉にそれを買いに走ります。「頭がよくなる」だとか「能力(脳力)開発法」なんて本のほとんどは、理論だけで実証データがない疑似科学にすぎません。なのに、その著者が医学博士や理学博士だったりすると、みんな信用してしまいます。

 年配のみなさんが博士を尊敬するのは、「末は博士か大臣か」の言葉もあったように、戦前からの伝統だ、ということだけは知られていますが、実際のところはどうだったのでしょう。昔は病院の看板に「院長 医学博士 ○山×男」なんて書くだけで患者が増えたといいます。しかし、これには事情を知らない一般人のカン違いが多分に混じっています。まず第一に、医学博士=名医、という思いこみ。医師免許と医学博士はまったくの別物ですから、医師免許を持っていない研究一筋の医学博士もいます。この人は当然、診療行為はできません。夜中に家族が急病になったとき、
「太郎が急病だ! ええい、博士号だの病気だの、人騒がせなヤツだ」
「となりのご主人、たしか医学博士だっていってたわよ」
「よし、連れて行こう……先生! 先生! 急患です」
「私は医者じゃないから診られないよ」
「ええっ!? だって医学博士なんだから、応急処置ぐらいわかるでしょう?」
「うむ。こういう場合は、救急車を呼ぶといい」
「ほら見ろ、博士号なんて取るだけムダだぞ、太郎!」

 となりのご主人はきっと基礎研究で医学に貢献しているのです。恨んではいけません。一方そのころ、太郎君の姉(国際線スチュワーデス)は、太平洋上空で急病人が出てあわてていました。
「合コンしようって誘ってくるファーストクラスのウザいオヤジ連中、ボストンの医学会に参加した帰りだっていってたよ!」
「よかった! 棚からぼたもち、ってやつね」
「微妙にたとえが違う気がする……いえ、そんなことより……すみません、お客様の中にお医者様がいらっしゃるそうですが」
「ええっとね、ぼくたちみんな医学博士だけど、だれも医師免許持ってないんだ」
「使えないわね医学博士!」

 彼らを責めないでください。彼らも医学の基礎研究に貢献しているのです。たぶん。

 戦前の医師の権威そのものにも疑問があります。現在のような医師国家試験ができたのは戦後のことです。戦前までは、大学の医学部を卒業するだけで医師になれたのです。各学校ごとに卒業試験をやっていたとはいいますが、なにぶん学内のことなので、どの程度の難易度・公正さをもって行われていたかは不明です。統一国家試験を実施してヤブ医者を排除せよ、との声もあったのに、当時の内務省は、「医者が足りないから」と相手にしませんでした。

 で、そのちょっと怪しい医師制度にハクをつけるために、医学博士の肩書きが重宝されたというわけです。しかし大正末期から昭和初期にかけて、医学博士濫造が問題視され、それにまつわる記事が新聞紙上をにぎわせています。博士号論文の審査報酬は論文一本につき百円なので、大学教授はこれで月給を上回る大金を手にしてホクホクだ、とか、博士号を欲しがる学生に礼金を要求していた教授が収賄罪で起訴されたりとか。なにしろ医学博士の看板が医院の経営を左右する時代だったのです、カネの絡むところには、黒い話がつきものです。

 でもだからといって、昔は悪かったと決めつけてしまうのもいけません。博士号の中身にこそ問題はあれど、少なくとも学校を出たての若者も、博士号の権威や名声を利用できたのです。それがいまやどうですか。真面目に研究して博士号を取得しても、就職時にマイナス評価を下されるとあっては、若者のキャリアにとって有害ですらあります。

 現代の日本で博士号の看板を活用できるのは、ビジネスでそれなりに成功した人や叙勲者など、世間的に見れば「すでにエラい人」に限られています。すでにエライ人が、もっと世間の人から尊敬されたいがための見栄の道具として、博士の肩書きを欲しがるのです。

 それって、博士号を勲章みたいなものとごっちゃにしているのでは、と思った人、あなたは鋭い。現在では学位を授与するかどうかは、各大学の裁量に任されています。しかしそれは大正9年、改正学位令が施行されてからのことなのです。じゃあそれ以前はどうなっていたのか。明治時代には各学問分野の博士会という組織がありまして、そこのメンバーが相談して、こいつの業績は博士に値する、われわれの仲間に加えてやろうじゃないか、という者を選び、文部省に推薦します。で、推薦された者は、文部大臣からめでたく博士号を授与されるという仕組みになっていました。これは現在も続いている叙勲制度の審査システムとほぼ同じで、つまり明治から大正初期には博士号は、勲章みたいなものどころか、勲章そのものだったのです。これでようやく、博士と大臣が同列に語られる理由と、お年寄りほど博士をありがたがる理由もおわかりいただけたことでしょう。

 そこでついに、夏目漱石の出番となりまして、博士号辞退事件を語ろうかと思ったら、太郎君一家の話とかくだらないことばかりいってるものだから、また長くなってしまいました。以下、次回。


今回のまとめ

  • 世界的に見ると、博士といえば科学者、という常識は通用しません。
  • アメリカの教師は意外に高学歴です。
  • 実力主義を標榜する会社ほど、無能な社員を雇ってしまいがちです。
  • 学位がお金で買えるアメリカでは、学歴詐称は日常茶飯事です。
  • アメリカで病気になっても、医者にかかるのは危険です。
  • エラい人にとって、低学歴は非常に強いコンプレックスです。
  • 明治時代、博士号は一種の勲章でした。

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