第15回
学力低下を防ぐには

お知らせ

 この回の内容は、『反社会学講座』(ちくま文庫版)で加筆修正されています。引用などをする際は、できるだけ文庫版を参照してください。

●親の希望は公務員

 子どもがこの世に生まれ落ちようとする瞬間には、親なら誰でも「少しくらいバカでもかまわない、どうか健康で五体満足な子であってくれ」と祈ることでしょう。これはなにも障害者を差別しているわけではなく、親心として仕方のないことです。おそらく障害者のかたが親になった場合も、同じことを願うはずです。

 ところが、いざ健康な子どもが生まれると、ああよかったと喜ぶのもつかのま、お祈りの前半部である「少しくらいバカでも……」のところは都合良く忘れ去られます。健康でしかも、かわいくカッコよく、勉強もできて、その上大きくなったら生活が安定した公務員になって、親の老後の面倒を見てくれ、と期待は無限にふくらみます。

 クラリーノ・ランドセルのメーカー、クラレが毎年新1年生の親に、「将来子どもに就かせたい職業」をたずねています。いつごろから調査を始めたのか定かでありませんが、少なくとも92年からの結果を見るかぎりでは、男女総合すると公務員がやはり強いようです。女の子の場合、看護師・保母という強敵がいるため公務員は毎年3位くらいに甘んじていますが、男の子では平均打率2割5分で不動の首位打者です。

 日頃、週刊誌などが報じる公務員の不祥事や官僚の天下りに怒り心頭のみなさんも、自分の子どもには思いっきり甘い汁を吸ってほしいと願う、この矛盾。親子の関係や心情は、統計や理屈では割り切れないのです。家族や親子のあるべき姿、模範や理想像なんてものは存在しないのだという真理に、文学は紀元前から気づいています。社会学はいまだに気づく気配もありません。

 そういえば、将来就いてほしい職業、男の子の10位は学者・大学教授なんですね(2002年)。微妙な位置のランキングですが、高級クレジットカードの代名詞であるダイナースカードの入会資格にも、医師・弁護士に並んで大学教授とあるくらいで、世間的にもステータスの高い職業とみなされているのは確かです。国立大学の医学部教授になれば、公務員・医師・教授の3条件を満たせるので、究極の親孝行といえましょう。


●子のつく名前で頭がよくなる?

 公務員にしろ大学教授にしろ、学業成績優秀でなければなかなかなれません。つまり、いかにすれば勉強のできる子になるか、それが教育の永遠の課題です。古来、あまたの方法論が登場しては消えていく試行錯誤の繰り返しでした。スパルタ式、ほめ殺し、アミノ酸、頭が良くなるスナックを発明した発明家などさまざまですが、ここでは社会学的なアプローチを紹介しましょう。

 金原克範さんの著書によれば、「子」のつく名前の女の子は成績がいいのだそうです。直子とか涼子とか恭子とか、そういうどちらかというとオーソドックスな名前の子ですね。ある地域の高校入学者を調査したところ、成績上位の高校ほど、子のつく名前の女子生徒の比率が多いという結果が出たとのこと。「学問なんてくだらない、くだらないからこそおもしろい」が持論の私にとっては、まさに待ち焦がれたバカバカしい研究で――と思ったら、どうも著者は大真面目にやっているようなんですね。失礼しました。

 こんな学説を小耳に挟むと、まさにいまおなかに赤ちゃんがいるご夫婦など、すぐ飛びつきます。

「ねえ、あんた、聞いた? 女の子なら絶対、子をつけなくちゃ。頭がよくなるんだってよ」
「へえ、そうなんだ……おい、だったら、子子子(シネコ)にすれば3倍頭がよくなるんじゃねえか」
「もう、あんた、天才!」

 しあわせなご夫婦の夢に水を差すようで、はなはだ心苦しいのですが、そうはなりません。社会学は科学ではありません。化学反応や物理法則のように、研究結果がすべての時代や地域で再現できるという保証はないのです。実際、金原さんもこの研究結果は70年代以前には当てはまらなかったとしています。

 それもそのはず、明治生命が毎年発表している新生児の名前ベストテンをさかのぼって見ていけば、理由がわかります。80年代から90年代前半にかけての高校入学者(つまり60年代後半から70年代に生まれた女の子)は、たまたま、子のつく名前とつかない名前の比率の釣り合いがとれていたのです。それ以前だとほとんど子のつく名前ばかりですし、逆に83年以降に生まれた女の子では、子のつく名前のほうがかなりの少数派になってしまいます(2002年に至っては、上位909人中たった38人)。これでは標本が偏りすぎて意味のある結果が出ません。ブラジルでは9割以上の人の血液型がOなので、血液型占いが出来ないのと一緒です。

「なぁんだ、子をつけても頭はよくならないんじゃん」
「あたりめぇだろ、バカ。山田花子と菊川怜のどっちが成績いいか考えれば、わかりそうなもんじゃねえか」
「やっぱ、あんた、天才!」


●英才教育と大学生の学力低下の関係

 頭を良くする特効薬などの登場は、当分期待できそうにありません。将来的には、遺伝子操作などでどうにかなるものなのでしょうか。でも「プチ整形で、ちょっと鼻を高くしてみました」なら結果がすぐわかりますが、「プチ遺伝子操作でちょっと頭良くしてみました」といわれても、効果のほどがわかりにくいと思います。

 いまのところは、成績を上げるには勉強するしかないのです。とりわけ、語学の勉強ではこの傾向が顕著です。「幼い子どもは文法だとかを勉強しなくても自然と言葉が話せるようになるじゃないか」という意見は根強いのですが、じつは子どもは勉強しているんです。それもものすごく熱心に。毎日十数時間、起きている間ずっと日常生活の中で聞く・話すの学習をしているようなものです。

 大人の場合は、意識して勉強しないと語学を習得できません。1960年頃のニューヨークにあった、移民向け英語学校のカリキュラムについて、実際に参加した猿谷要さんはこう書いています。

 毎週三日間、夜の三時間だけ英語を教えられるのだ。着いたばかりの移民たちは、言葉があまり必要ではない単純労働に従い、夜になると英語を勉強して、少しでも早くアメリカ社会に融けこもうとして努力する。

 使える英語を教えろだとか、小学校の英語教育の是非だとか、昨今、日本の英語教育についてやかましく議論されています。でも、本当にアメリカで生活できるだけの「使える」英語力を身につけるには、週に9時間くらいの勉強が必要だということです。中学から6年間英語習ったのに、ロクに英会話もできないのか、と日本人の英語力を嘆く声が聞かれますが、現在のカリキュラムではできなくて当然です。まだ当分、駅前の英会話学校の経営は安泰です。

 ということで、どうせたくさん勉強しなければならないのなら……と考えて行き着く先が、早期英才教育です。自分がバカなのは、小さい頃から勉強しなかったせいだ、だから子どもには他人より早く猛勉強を始めさせよう――と、自分の怠けグセを棚に上げて子どもに強制する都合のいい教育法です。

 古くは大正5年(1916年)、東京の青山幼稚園で英語を教えていた記録が残っています。英語に限らず、大正時代は第一次英才教育ブームといっても過言でない時代だったのです。大正時代の読売新聞には、婦人附録というページがありました。子どもの学習指導やどんな本を読ませるべきかについての記事が連日のように載っており、関心の高さをうかがわせます。でも読んでみると抽象的な内容が多いので、実際、役に立ったかどうかは疑問ですが。

 英才教育は一過性のブームだったのか、効果がないとあきらめたのか、はたまた戦争へ向かう国情の変化からか、次第に下火になります。戦時中には兵器を開発する技術者を養成するため、理数系の英才教育が行われていたようです。

 終戦直後は、英才教育という言葉は、大学でのエリート教育という文脈で使われることが多かったのですが、60年代あたりから中高レベルにまで下りてきて、ついに1970年前後から幼児教育ブームに火がつきます。71年には、文部省が幼稚園の義務教育化構想を発表し、論議を巻き起こします。NHK教育テレビで『セサミ・ストリート』が初めて放送されたのもこの年でした。

 高度経済成長により、中流家庭が子どもの教育にカネをかけられるようになったのがブームの一番の要因でしょう。私はそこに加えて、当時すでに進行していた大学生の学力低下に対する危機感もあったのではないかと見ています。学力低下はいまの大学生の問題ではなく、40年以上前から始まっていた現象なのです。

 61年(昭和36年)の映画『大学の若大将』で描かれる当時の大学生のお気楽おバカぶりには唖然とします。どう見ても分数の計算など出来そうにありません。若大将の実家は老舗のすきやき屋なのですが、若大将は「おやじぃ、こんなのはもう古いんだよぉ〜」とばかりに父親に改装を勧め、最後にはハワイアン風のバーベキュー屋みたいなのになってしまいます。そこでハッピーエンドとなるのですが、あんなわけのわからん店は半年くらいで潰れたに違いありません。制作者サイドには、軽薄な若者文化を揶揄してやろうとする含みもあったのではないかと思うのですが、当時の若者には大ウケし、その後続編が何本も作られるヒットシリーズとなりました。

 69年に出版された『英才教育 間違いだらけの教育』は当時の東京教育大学教授の筆によるものです。

 大学生たちは、いつもボンヤリ遊びほうけ、愚にもつかない家庭教師をやり、クラブ活動にひたりっぱなし。教室ではいねむり。試験のとき少々勉強するだけ。……東大生でもまともに文章が書けないものが多い。

 とまあ、コテンパンです。当時の学生は一方では大学紛争に熱中する者がいて、その一方では無気力な者ありと、いずれにせよ勉強熱心でなかったことはたしかで、それに対する個人的ないらだちが教授に筆を執らせたものと推察されます。教授はさらに大脳生理学などの科学的見地から、幼児英才教育の有用性や子育てのあるべき姿を説きます。要は、可能性を秘めた幼い子どもたちに、現在のアホ大学生の轍を踏ませるなという論旨なのですが、エセ科学の臭いがプンプンします。

 [心身ともに弱い新入社員は]副腎が弱く、試練にたえるホルモンが出ず根性がないのです。

 統計からいえることですが、日本では、二十三、四才から三十三才あたりにかけての母親から、いい子が生まれています。

 星一徹は、飛雄馬が寝ている間にこっそり副腎ホルモンを注射していたのかもしれません。ドーピング疑惑です。それにしてもこの著者は、自信たっぷりに断定的ないいかたをしているにもかかわらず、副腎機能の低下を示すデータや、「いい子」がどれくらいの割合で生まれているのかといった統計を公表してくれません。そもそも「いい子」って定義がずいぶんおおざっぱです。「やあ、この子はいい子だなぁ」って、親戚のおじさんのお愛想みたいな基準でいいのでしょうか。こんな講義では、学生がまともに聴く気にならずいねむりするのも無理はありません。なんだか、この師にしてこの学生あり、といった感もあります。


●勉強しないとテロリストになっちゃうよ!

 幼児英才教育の効果に対する疑問の声も上がりましたが、こういうのは宗教と同じです。一度入れ込んでしまった親の考えを変えるのは容易ではありません。幼稚園のうちに1000文字の漢字をおぼえさせる石井方式なる教育法も広まります(これは現在でも続いているようです)

 そして72年2月、世間を震撼させる事件が起こります。連合赤軍のメンバーが浅間山荘に人質を取って籠城したあの有名な事件。英才教育とは無関係に思えるこの事件が、なんと英才教育ブームに拍車をかけるのです。当時の親たちの間には、自分の子どもがああなっちまったらどうしよう、という恐怖の波が広がります。幼児教育事業を行っている会社はこの社会不安に便乗して、母親たちに教育法講座を売り込みます。当時の新聞に、その会社の顧問がいけしゃあしゃあと語っています。

 連合赤軍事件は母親のどぎもを抜いた。自分の子があんなになっては困ると、そういう母親教育が、この講座の第一のねらい。

 72年版の『優良児童図書総合目録中学校用』では、本を読まない子どもの増加を警告するために、やはり赤軍をダシに使っています。

 ……読書は、人間の思考力を錬磨するだいじな営みである。その思考力を欠いた青少年が、どんな人間に成長していくか、連合赤軍の例をとるまでもなく、あい継ぐ学生、青少年の事件で、われわれはすでに、いやというほど思い知らされているはずである。

 じつはこの文章を書いたのは、毎年行われる「青少年読書感想文全国コンクール」の課題図書を選定している、全国学校図書館協議会の事務局長なんですね。これに対し、

 現在の日本の母親たちにとって、何よりも恐ろしい連合赤軍を引き合いに出し、恰も本を読まないと連合赤軍になってしまうぞといわんばかりの恫喝をかけている。

 と、根拠のない言説に痛烈な批判を浴びせたのは作家の山中恒さん。さらに、課題図書に選定されれば数十万部の売り上げは堅いことから、その選定に際し裏ではオトナたちのどす黒い策謀がうごめいていることをスッパ抜いています。さすがは『あばれはっちゃく』の作者です。課題図書のうさんくささについては、山中さんが「課題図書の存立構造」でほぼいい尽くしていますので、興味のある方は読んでみてください(『児童読物よ、よみがえれ』(晶文社)所収。現在、児童文学書評のサイトにも全文が転載されています)。エラそうなことをいう人の背後には、たいていなんらかの利権が絡んでいるものだということがよくわかります。

 いまから思うと、当時の人たちが、なんで勉強や読書をしないとテロリストになると考えたのか不思議です。だって、浅間山荘事件のつい3年前には東大紛争があったばかりだったんですよ。日本で一番勉強や読書をしていた人たちが暴れまくっていたというのに。世論なんてものは、その時々の印象的な事件に左右されて、すぐに180度変わってしまう無責任なものなのです。


●英才教育に効果はあるのか

 このように、いろいろな英才教育が存在したのですが、誰もが知りたいことはひとつ。で、結局効果はあったのか。私は、幼児英才教育は長い目で見れば効果はない、と結論づけます。証拠はあるのか? ないんです。ないからこそ、その効果が疑わしいのです。

 どういうことかご説明しましょう。幼児英才教育ブームは70年代に起こりました。となると、その教育を受けた人は現在30歳前後になっているわけで、社会の一線で活躍しているはずです。それなのに、彼らの間で、私は幼児期に英才教育を受けていたと公言する人がまったくいません。

 幼児英語教育も70年代に存在していましたから、当時の生徒で現在、通訳や翻訳のプロとして活躍している人がいれば、営利企業である幼児教育産業がそれを宣伝に使わないわけがないのです。大学受験予備校や司法試験などの資格学校のやり口を見てください。模擬試験を一回受けただけの人も勝手に自分のところの受講生とみなし、「合格者の○○%が当校の受講生でした!」と宣伝しているではありませんか。それなのに、幼児英才教育の会社はどこもその種の宣伝活動をしていません。「同時通訳者として活躍中のプロの○○%が幼児期に当社の教育を受けていました!」なんて宣伝広告を目にしたためしがありません。と、なれば、結果はおわかりでしょう。

 子どもは乾いたスポンジのように情報を吸収しますから、短期的にはめざましい教育効果を得られます。しかし、長期的には幼児英才教育の効果は期待できないのです。むりやり幼児期から教育を始めても、その子が大学入学後も自発的に勉強を続けないかぎり、大学生の(長期的には社会全体の)学力低下は防げません。

 でも、じつは、学力低下が起こっているかどうかなんて、どうでもいいことなのです。学力が低下したから勉強しよう、ってのもなんだかおかしな理屈です。ちょっと太ったからダイエットしよう、みたいなのとは違うと思うんですね、勉強というものは。

 学力が低下していようがいまいが、みなさん、勉強は続けなければいけません。勉強していないと、へっぽこ学者の強引な理論にねじ伏せられてしまいます。最近ではゲーム脳理論がいい例です。医学の専門知識がなくても、ある程度の学力・読解力を持ってる人なら、あの本を一読しただけで論旨や根拠にクビをひねるはずです。それなのに、大学の先生の研究だから間違っているはずがない、と無批判に取り上げる新聞・雑誌の多いこと。大手マスコミ各社は、大卒の社員しか採用していませんから、やっぱり大学生の学力は低下しているようです。

 ……時代の空気は思考蔑視に染まっているが、究極的には、思索をやめなかった者あるいは、ふたたび思索をはじめた者に手玉にとられることになるだろう。
――ベルナール=アンリ・レヴィ『危険な純粋さ』


今回のまとめ

  • 子どもが公務員にならないかぎり、親は安心しません。
  • 子子子(シネコ)ちゃんの成績は保証できません。
  • 大正時代から幼児英才教育は行われていました。
  • 1960年代、すでに大学生の学力は低下していました。
  • 副腎を鍛えましょう。
  • 勉強してもしなくても、テロリストになることがあります。
  • 幼児英才教育の効果は期待できませんが、少なくとも親の自己満足にはなります。

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