御意見無用4 (2005年2月)
つまらない学問は罪である
〜クソ真面目学者からの批判に答える〜


 「好き」に理由は要らないが、「嫌い」にゃ理屈をつけたがる。
 印象批評はやめましょう、とは文芸批評の世界では基本とされるスローガンですが、やはり人間、好き嫌いがあることは否めません。作品を気に入れば誉めたくなるし、他人に薦めたくなります。気に入らなければクサします。

 さて問題は、自分が気に入らなかった作品が、他の大勢からは賞賛されている場合です。このとき人の心によぎるのは、「なぜ?」という困惑です。次に陥るのが、「オレの感性は間違っているのだろうか」という自己不信。悶々と日々を過ごすうち、自分と同意見を持った少数派と出会います。「だよね。アレ、つまんないよね。オレもそう思ってたんだよ」と同意を得たので勇気百倍、「オレの感性はやっぱり正しい。オレがオレを信じられなくてどうする、がんばれ、オレ」と己を叱咤し、ついには「あんなくだらないものを賞賛している連中こそがアホなのだ」という結論に落ち着き、ご飯がおいしく食べられるようになります。

 一般の人ならここで終わりなのですが、評論家や学者といった人たちには、さらにこのコースにあともう一品、用意されております。それが、個人的に嫌いなものへの理屈づけおよび一般化という作業です。

 先日ネット上で、『反社会学講座』を嫌う社会学者による批判的な意見が公開されました。犬飼裕一さんの「にせ外国人の社会学」と題された書評で、その主張に賛同した野村一夫さんのサイトに、なぜか期間限定と銘打って掲載されています(ということなので、一応リンクしておきますが、切れてたらご容赦を)。大学の紀要に載せるつもりのものらしいのですが、紀要掲載の論文を別のメディアで同時公開してはいけないとする規約でもあるのでしょうか。

 ところで一般の人たちは(ひょっとしたら現役の大学生すら)、紀要というのがなんなのかご存じないと思います。紀要とは、大学の先生たちが書いたカネにならない論文を集めて大学が発行する同人誌みたいなものです。こんなことをいうと、また大学の先生たちが猛り狂いそうなので、言葉を足しておきましょう。カネにならないとは、内容がお粗末なのではなく、つまらないという意味です。

 近頃ではマンガの同人誌を作っている人たちだって、コミケとかいって広い会場に集まって大々的に販売しているというじゃありませんか(私はマンガやアニメにあまり興味がないので、もし間違ったことをいってたらごめんなさい)。そこには、自分たちの作品を売ろうとする努力が見られます。売るということは、より多くの人に読んでもらうことであり、そのためには読者を意識して、おもしろく描かねばなりません。

 私だって、ただ適当に筆を走らせて本にまとめたら、アラ売れました、なんてラッキーな話ではなかったのです。おもしろくわかりやすく書くことももちろん大変な作業でしたし、脱稿後もなかなか版元は刊行しようとしないし宣伝には力を入れないし(要するに版元(の営業)はこんな本は売れないと思っていたのです)。だからこそ出版社をあてにせず、本の発売直後に自ら書店へ営業におもむき、宣伝してまわりました。

 ひるがえって、学者のみなさんはどうですか。自分たちの思想や著書は高尚だから、一般の人にウケなくてもいいんだ、つまらないと思う読者が勉強不足なのだ、と開き直ってらっしゃる。ご自分たちの本が売れないとこぼすわりには、書店に頭を下げて回ることすらしていない。マンガを描いているシロウトたちに比べても、プロである学者がモチベーションでも営業努力面でも明らかに劣っているのです。しかも先生がたはその点になんの危機意識もお持ちでない。

 ところでその書評ですが、結局のところこれを読んで伝わってくるのは、犬飼さんが『反社会学講座』をあまりおもしろいと感じていないこと、そして、その著者であるパオロ・マッツァリーノをひどく嫌っていること。それだけです。

 本をつまらないと思っている理由はあまり語られていません。犬飼さんの笑いのツボが私とは異なるのだろうなというのはわかります。犬飼さんは『反社会学講座』の笑いを、ゲラゲラ笑う種類のものではないとおっしゃいますが、そんなことはないですよ。爆笑したという読者はたくさんいます。自分でいうのもなんですが、活字で読める笑いとしては、かなりのレベルではないかと自負しております。でもまあクセのある笑いですから、好みはわかれて当然でしょう。

 一方、パオロ・マッツァリーノを嫌っている理由は、書評の大半を費やして述べられます。ただ残念なことに、極力冷静に一般論・文化論に仕立てようと理屈をこねるあまり、嫌いな理由が最後まであいまいなままです。イタリア人を名乗るくせにイタリアの情報が少なく、日本や東京、英米のことばかりしゃべっているところがとりわけお気に召さないらしく、そこが最大の批判点となっています。

 たしかにプロフィールによりますと、私はイタリア人ということになります。母がイタリア人で日本人の父は婿養子なのですから。しかし、幼い頃から世界中を転々としているのだから、イタリアの記憶や知識に乏しくても不思議はないわけで、これはプロフィールの設定とは矛盾いたしません。

 イタリア人が英米の事例ばかり引き合いに出すのはおかしいとのご批判ですが、それは批判のための批判でしかありません。だって、仮にもし、私がアメリカ人を自称していたら、「英米の例ばかり出すのは偏ってる、世界にはいろいろな国があるのに」とかなんとか批判するのではありませんか? 「社会学者が社会学を批判するのは自虐だ」なるほど。「社会学者でない者が社会学を批判するのはお門違いだ」それもそうだ。って、ほらね、どっちもアリでしょ。発言者が何者であろうが、いずれにしろ叩くことは可能なのだから、作者が何者であるかは、作品批判の理由にはなり得ないってことです。

 結局のところ、私が何者であろうが、『反社会学講座』の価値、おもしろさは変わりません。私がイタリア人だったら、日本人だったら、在日韓国人だったら。社会学者だったら、そうでなかったら、はたまたお笑い芸人だったら。それによって変わるのは本の価値ではなく、読者の気持ちのほうです。犬飼さんは、私(マッツァリーノ)が「社会学」に特別な思い入れを抱いていると決めつけていますが、実際のところ、そうでもありません。私が興味を持つのは社会と人間であり、社会学の理論なんてどうでもいいんです。社会学とイタリア人に特別な思い入れを抱いているのは、じつは犬飼さんのほうなのです。だからこそ、ご自分の抱く「社会学」「イタリア人」の理想像に泥を塗った不埒(ふらち)な私に反感を抱くのです。

 犬飼さんの書評をサイトで紹介している野村さんは「この本については、ほめていれば無難であろうというような、勝ち馬に乗る媚びたコメントばかりで、何か骨のあるような反応を見たことがありませんでしたので、とても新鮮に感じました」と犬飼さんへの支持を表明していますが、こちらもなにやら根本的なところで思い違いをなさっているようです。

 『反社会学講座』を書評で取り上げてくださったみなさんは、それが作品としておもしろいと思ったから、各メディアで紹介してくださっただけのことです。その肝心な点を無視して、ご自分が気に入らない作品を誉めている人を「勝ち馬に乗って媚びている」と誹謗するのは乱暴です。その一方で、『反社会学講座』に対する不快感を一般論にせんがため理屈をこねる犬飼さんの書評を「骨がある」と持ち上げているのですから、これはもう印象批評どころか、ただ単に、ご自分たちの本が売れないのに、どこの馬の骨だかわからないふざけた野郎が書いたくだらない本が売れるのはけしからん、というヤッカミとしか受け取れません。

 冒頭からアイロニーの度が過ぎる文章が続いたので、なにやら個人攻撃のごとく受け取られるかもしれませんが、それは私の本意ではありません。なにより、ここに現状の日本の学問のもっとも悪しき一面が浮かび上がっていることこそを、私は問題としたいのです。それは、学問のおもしろさの否定。ならびに、無学な一般人に門を閉ざす学者の姿勢です。

 「日本の近代はクソ真面目教という不思議な信仰にがんじがらめにされている」と山口昌男さんはいいました。学問の世界では現在に至るまでこれがはなはだしく、学問は真面目で正しくあるべきで、つまらないのは当然だ、ましてや笑いやギャグなど混ぜるのは不届きだ、とされてきました。

 お札の肖像にもなった福沢諭吉や新渡戸稲造のどこが偉かったのかといいますと、二人とも一般人のわかる言葉で文章を書き、学問を広めようと努力したところです。福沢は書いた原稿を、自分の家で使っている下女・下男に読ませて意味が分かるかたずねていたといいますし、新渡戸も学のない民衆のために本を書いたり、夜学を開いたりしました。読み書きソロバン以外の学問が一般人に開放されたのは、日本の歴史上、画期的なことだったのです。

 さてそうやって一般人を相手に学問をやっていると、わかりやすくておもしろい文章が書けない学者や専門家は気にくわない。なんであんな薄っぺらなことを書いて一般人に媚びているヤツらがちやほやされるのだ、と。

 一般人にわかりやすく本を書くためには、専門的な部分を多少はしょる必要もでてきます。ところがそうすると、クソ真面目教信者である専門家や学者たちが待ってましたとばかりに噛みついてきて、重箱の隅突き大会が始まります。アタック・ザ・ランチボックス・コーナー・フェスティバルです(とは英米人はいわないけれど)。くやしかったら、自分たちももっとおもしろい本を書けばいいのに、それができないものだから学問的な正確さを振りかざし、おもしろくてわかりやすい本の価値をおとしめようとするのです。

 私はかねがね、読んだ人に「うわ、なんだこれ、おもしろいなあ」と驚きと喜びを与える本を書いてみたいと思っていました。そして『反社会学講座』を構想し、カタチにしました。私の立脚点はエンターテインメントにあります。どんなに難しいこと、真面目なことに手を伸ばそうとも、必ず片足はエンターテインメントにつけたまま、そこを離れないようにしようと心がけております。

 そうすることで学問をエンターテインメントとして提供でき、一般読者に楽しんでもらえるはずだと考えました。そして、1万部売れれば大ヒットとされる人文書の世界で、その数倍の売り上げを記録したのですから、私の目論見はある程度の成功を収めたといえましょう。去年の夏頃には、貸し出しの予約待ちが20人以上にのぼる公共図書館もありましたし、本は買わずにネット公開分だけ読んでる人もいますから、実際には本の販売部数を遥かに上回る数の読者がいるのです(できれば、お金に余裕のあるかたは購入していただけると、私のみならず書店や出版社で働く人たちのふところも潤うので、重ねてひとつお願いします)

 結果として、私は社会学という得体のしれない学問の敷居をぐーっと下げて門を開放し、一般のかたが気軽に参観できるようにしたのです。ところが、クソ真面目教の学者たちは、これがお気に召さない。社会学および社会学者は、民衆から一目置かれる存在であらねばならない。飲み屋に行けば女の子たちに先生、先生、とちやほやされ、支払いはダイナースカードでスマートにされるべきである。うすら馬鹿どもがひやかしに社会学の秘密の花園をのぞきに来るなどもってのほか。その奥義を手に出来るのは、勉強と研鑽を積んだ者だけであるべきだ。わかる者だけにわかればいい――とプリプリ怒りながら、また門を閉ざそうとするのです。これを私は、「社会学的ひきこもり」と名付けましたので、いずれ斎藤環さんに学者たちのカウンセリングをお願いしたいと思います。

 ひとつ私が謝らなければならないとしたら、それは、社会学者だけを悪者扱いするような言説を強調しすぎた点でしょう。学問をつまらなくし、かつ、門を閉ざす態度は、すべての学問領域で見られる現象ですし、私にとってはそのすべてが批判対象です。

 そもそも、学問というものは社会や人間にとって必要不可欠なものではないのです。昔から世間でいわれる極論にこんなのがあります。「大学なんか出てなくたって、エラくなった人はいくらもいる。松下幸之助なんか小学校しか出てないじゃないか」。そうはいっても、現在では大学出てないと松下電器の入社試験すら受けさせてもらえそうにありませんが、まあ、それはともかく、世間の人たちが学問を役に立つか立たないかで評価する傾向は根深く、とりわけ文系の学問を見る目の冷ややかさといったらもう。

 でも、いいんですか? それで。そうなると、ジンメルだのルーマンだのを研究している社会学者のみなさんなどは、役に立たないという理由で真っ先にクビを切られ、来週にもハローワークに並ぶハメになりますよ。学者をやってるかたのほとんどは、子どもの頃から成績がよくて、スルッと大学入って、サクッと卒業して、気がつけばなんとなく学者を続けているパターンが多く、研究・教職以外の仕事をしたことがないかたもかなりいます。ハローワークなんて行ったこともないでしょう。なかなかないですよ、社会学者の求人なんてものは。かといって、プライドが邪魔してまったく別の職業に就くことも難しい。居酒屋に転職して、コンパの学生客に「はい、よろこんで」って喜んでいえないでしょ?

 だからこそ、学問はおもしろくあらねばならないのです。たとえ役に立たなくても、おもしろいことを市井の人々にアピールできれば、存在価値は生まれます。おもしろくなくて、だれがあなたがたの主張に耳を傾けようとしますか。エンターテインメントとしての学問を否定し、道化になることも拒否して、真面目の殻にひきこもる学者の意見は、誰のところにも届いていないのです。この際、もういいきってしまいましょう。つまらない学問は罪である、と。

 それに関してもうひとつ。犬飼さんは、私が社会を良くすることを願っているかのようにお書きになってますが、それはとんでもない誤読です。私は社会をおもしろくしたいと願っているのです。むしろ、社会を良くしようなどと主張する学者や評論家を軽蔑しています。なぜなら、万人にとって良い社会なんてものは存在しませんから。学者や評論家が「社会を良くしよう」といった場合、それはすでに勝ち組になっている彼らにとって都合のいい社会でしかありません。

 私はいまの世の中をそれほど悪いとは思ってません。いまの世の中を悪いというスーペーさん(超悲観論者)たちは、「昔は良かった」という勝手な前提のもとに、現在の社会を嘆いています。つまり、昔に比べて社会も人間も悪くなった、これからも悪くなるという主張です。私はそういう連中の首根っこつかまえて、おいおい、ちょっと待ちなさい、と疑問を呈しているのです。手間を惜しまず昔の新聞や資料をちょいとめくれば、犯罪だって昔のほうがよっぽど多くて凶悪だったことがわかります。昔の人は真面目で勤勉だったなどという説も幻想にすぎず、今も昔も人間はいいかげんだったことがわかります。オジサンたちは、高度成長期は誰もが頑張っていた、みたいなことをいいますが、当時だってダメな人はやはりダメで、何度も転職を繰り返していました。全般的に景気が良かったせいで、ダメな人の存在が目立たなかっただけのことです。

 私はいまの若者にも絶望していません。だからこそ、この三十代後半のおっちゃんは、若者の肩を持つ発言をするのです。昔の人だってダメだったんだから、いまの若者も自信をなくすことはない、と繰り返し伝えるのです――しかも、おもしろく。だれがおもしろくもない説教に耳を貸しますか。最近も本屋に行ったら『大人の言うことを聞きなさい!』なんて本が並んでまして、そういうつまらない本を出すから、こどもはますますオトナのいうことを聞かなくなるのです。

 社会をおもしろいと思えない人は、社会に積極的に関わろうともしないのです。社会を良くしたいと思うのなら、まずは社会と人間をおもしろいと思わせるところから始めるべきなのです。

 私はしばしば、あなたの肩書きは何ですかと質問され、自分でも悩んでおりました。今後私は、戯作者です、と答えることにしようかと思ってます。江戸時代、庶民向けに皮肉や諧謔、風刺のきいたおもしろい本を書いていた人たちですね。そういう先達にあやかりまして、戯作者のパオロ・マッツァリーノである、と名乗ろうかと。これならいくらおもしろいことを書いても、学者のみなさんから文句をいわれる筋合いはないでしょう。ということで以後、お見知りおきのほど、よろしくお願い奉ります。


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